BABY BABY



 チュンチュンと響く鳥達のさえずり。白みがかるというよりは既に青々と輝いている空。開け放たれた扉からは清々しい風が入り込み、ベッドに横たわるこの部屋の主人の頬を撫で付ける。
 爽やかな朝。
 自らが率先して企画してきたものを重役達の前でプレゼンする、そんな日にはとても幸先のいい始まり。
 目覚ましの音でも弟の呼び掛けでもなく、自然に浮上してきた意識。ああ、こんな気持ちのいい目覚めなら、朝からティータイムも悪くねぇな。そう思いながら時間を確認しようと枕元の時計に手を伸ばす。けれど、どうにもこうにも見当たらない。仕方がないから目を凝らして壁掛時計を見つめてみる。8時24分。ちなみに会社の始業時刻は9時ジャスト。
「……………どあぁぁぁぁああ!!!??」
 完全なる寝坊。枕元に置いてあった時計は部屋の隅っこで煙をモクモクあげていた。

 ドタンバタンと派手な音を立てながらオレは階段を下りていく。飛び起きたまま慌てて着たワイシャツは既にヨレヨレ。ボトムも些か皺だらけ。
 わりぃ、アル。いつもアイロンをかけてくれる弟に心の中で謝罪して、リビングへと下りていく。
「何で起こしてくれなかったんだよ、アル!」
 リビングに着くと、自分が悪いのにいかにもアルが悪いというような口調で言ってしまった。返答はない。しまった、怒らせたか!?大学院生の彼はいつもこの時間はキッチンで片付けをしているか、リビングで新聞を読んでいる……………………はずだ。
 自信が無いのは普段ならこの時間オレは会社に行っているから。けれど今日に限っては彼の返事が聞こえてこない。というかどこにも見当たらない。不思議に思って部屋を見渡すと、テーブルのうえにメモが一つ。
「え〜と、なになに!?兄さんへ。今日は教授に付いて遠くの学会に行かなくちゃならないので先に出ます。朝食は用意したからちゃんと食べてね」
 隣を見るとラップをしたベーコンエッグとサラダが置いてある。
「さすがオレの弟!……んで?ピーエス、目覚まし時計壊すぐらいぐっすり幸せそうに眠ってたよね。どんな夢見てたかあとで教えてね!………ピーエス2、幸せそうな寝顔に見入っちゃって起こすの忘れちゃったけど、会社に遅刻しないで、ね……ほし…マー、ク………」
ぐしゃり。
 ………………何故だろう。明からに自分で起きれなかったオレが悪いのに、何故弟を憎く思うのだろう。つーかピーエス2って何だよ。PS2!某会社のゲーム機名かよッ!
 握り潰したメモを丸めてごみ箱へゴー、ストレート。時間が無いから適当に歯を磨いて顔を拭いて、書類のつまった鞄を持ってオレはそそくさと家を出た。


いつもなら会社まで近くのバス停からバスで行く。けれど今日はそうもいってられない。何せ普段と違う時間帯だから、おいそれと直ぐにバスは来ない。
しばらくすると来るには来るが、それだと始業時刻に間に合わない。
しゃあねぇ、とオレは腹を括って大通りに走りだす。懐は痛むが背に腹はかえられない。会社までタクシーで行くことにしよう。
車道を悠々と走る空席と掲げた黄色い車体に大げさなほど手を振った。
「アンタ何でこんな時間にこんなとこいるのよ!?」
 手を振って止めた車に乗り込んだあと、目的地を言う前にそう言われた。
 明らかに聞き覚えのある声。口調。
「ウィンリィ!?」
「どうせま〜〜〜た寝坊したんでしょ」
 しみじみと呟きながらバックミラーを直すのはウィンリィ・ロックベル。オレの幼なじみ。そういえば彼女はタクシーの運転手をしていた。
「お前まだこの仕事やめてなかったのかよ」
「当たり前でしょ!?吹き抜ける風。颯爽と走る車体。運転することが仕事だなんてもう最高じゃない!」
 握りこぶしを作りながらウィンリィは熱弁を振るう。止めなければ運転の際のテクニックとかオートマがどうとかマニュアルがどうとか、オレが聞いてもよくわからない専門的なことを語りだすかもしれない。いや、絶対語る。もともと車好きな彼女だ。そりゃあもう盛大に語りだすだろう。
「う、ウィンリィ!車のことはいいからさっさと発車しろよ!」
「しょうがないわね」
「しょうがないわねじゃねぇっつの!」
「はいはい。で?行き先はセントラル商事でいいわけ?」
「あぁ、道順は任せるから急いでくれよな」
「寝坊したんだもんね」
「うっせぇ――――ッ!!」
 力のかぎり叫ぶ。ウィンリィはけらけら笑いながらアクセルを踏み込んだ。ブオンとエンジンの噴く音。歩道にあわせて止めていた黄色い車体が再び車道に戻っていった。
 たぶん。時間的余裕はまったくないが彼女に任せれば無事会社の始業時刻には間に合うだろう。ふぅと安堵の溜息をつきながらオレは背もたれによしかかった。鞄を横においてネクタイも少し緩める。
 ふと視線を横に移せばびゅんびゅんとありえない速さで過ぎ去る景色。この速度なら世界の車窓が1分で終わる。………………何キロだしてるとかは聞かないことにした。だってオレが警察に捕まるわけじゃないし意味が無い。
 考えとは裏腹に横を向いたまま硬直した首から上をぎりりと手で押さえながら元に戻す。
「アンタ何やってんのよ」
 どうやらバックミラー越しに見られたらしい。
「何でもねーよ。それよりお前、この仕事やめたほうがいいんじゃねぇの?」
「何で?」
「何でってそりゃあ……!」
 タクシーに対してトラウマを持つ客を生み出すから、とは怖くて言えない。
「あ〜〜、ほら。タクシーの中って密室じゃん。犯罪者とか乗ってきて脅されたりあるいは殺される可能性だって捨てきれねぇだろ!?」
「何?心配してくれてるわけ?」
「まぁ、そりゃ一応な」
「そっか、ありがと」
 前を向いたままのウィンリィがにへらと笑うのが鏡越しに見えた。やばい、顔が赤くなる。
「でもね。エド」
「…うぇえ?なんだ?」
「そんなこと気になんないぐらい楽しいのよ、この仕事。いろんな人と出会えるし、いろんな場所に行けるし。何よりあたし運転が大好きだから」
 にこにことそう話す彼女を見て、オレは何も言えなくなってしまった。
 彼女のこの顔には昔から弱いのだ。弱いから言えない。そう、たとえ窓の外が音速で動いていても。
「それにさ。そんな危険な客がいたら」
「あ゛!?」
「これでカタ付けるから安心しなさいよ」
「うおぅ!?おまっ、ちょっ!前向いたままスタンガンこっち向けんな電源付けんな危ねぇだろ―――ッ!!??」
 青白い電流との距離、わずか5センチ。
「冗談よ、冗談」
「冗談で電流浴びせられてたまるか――――ッ!」
 危ない。むしろこいつのほうが危険人物だ。背もたれぎりぎりまで飛び退いてオレは必死でスタンガンを避ける。
「あぁ、もう。冗談の通じない男ね。……さて、着いたわよ」
 ウィンリィが親指でぐいっと窓の外を指す。その方向を向いてみると見慣れた建物が目に入った。
「セントラル商事………って早ッ!!」
「まだ9時には全然余裕があるわよ」
「サンキュー、ウィンリィ!」
「当然よ!それより、タクシーなんだからお金はちゃ〜んと払ってよね」
「わーってるよ。んで、いくらだよ!?」
「えっとね〜」
 ウィンリィがメーターを見ている間にオレは鞄から財布をとりだす。鞄の中には今日必要な書類とメモリースティックと折畳み傘だけ。
 ………あれ?
 上着のポケットと内ポケットに手を入れてみる。出てきたのは携帯電話と丸まったティッシュのクズだけ。
 ………あれれ?
「二千八百六十………ってどうしたの!?」
「ははっ、わりぃウィンリィ。………財布、ねぇ」
「はぁぁあ!?」
「だからわりぃって!!すいません!御免なさい!!そうだ!あとで家まで金届けに行くよ!行くからッ!だからおまっスタンガン構えんなッ!!!」
 電流ビリビリ放電中。
 ………………負けるものか!
「……ホントに!?」
「ホントだって!マジで!絶対にッ!!」
「そう。……………なら」
 泣きそうになっていたところ。少し緩めていたネクタイを引っ張られる。首が絞まる直前。唇に何かが触れる感触。
「今はこれでいいわ」
「……熱あんじゃねぇの?お前」
 至近距離で紡がれる言葉はひどくむず痒い。
「さ、ほら早く行きなさいよ。せっかく急いできたのにあたしの頑張りを無下にする気?」
「へいへい。じゃ、いってくる」
「いってらっしゃい」
 鞄を抱えてタクシーを降りる。
 降りた途端に扉が閉まって黄色い車体は去っていった。まばらに通り過ぎる通行人。時計の針は9時少し前。オレは颯爽と会社へと駆け出した。