誰し君よ



 たなびく雲は山を越え谷を越え時間さえ越えて大空を泳いでいく。あの雲は自分の知っている雲だろうか。それとも、立ち上る水蒸気で新たに生まれたまだ真新しいものだろうか。
 エドワードはそう考えながらベッドに腰をかけて窓の外を見つめる。何処までも広がる蒼。この空を渡る雲は、どこにいても同じように広がっている。このドイツでも、或いは他の国でも、多少は違えど空の景色は変わらない。
『エド!』
 不意に、記憶の中にある異世界の少女の声がよみがえる。何年も思い出さなかったのに、ここ最近は頻繁に耳元に鳴り響く声。齢を重ねていささか感傷的になってきてしまった所為か。或いは、死期が近づき過去を振り返らせるためか。
 くつり、エドワードは嗤う。
 そんなことは当の昔に胸の奥に刻まれているというのに。
 ゆるりゆるりと時間が流れていく。徐々に開けた雲間から太陽が除いて、エドワードは反射的に目を瞑る。
 白い、白い闇。太陽の光に侵食されて、目を閉じていても痛みを感じる。しばらくそのままでいるとしかし、段々と闇が黒さを取り戻していった。太陽が隠れてから、そろりとエドワードが目を開けようとする。その時に、ドアの向こうからこちらへと向かうばたばたとした足音が聞こえてきた。
「エドお祖父ちゃん、遊ぼう!」
「こら!まだ勉強が終わってないでしょう?すみません。せっかく休んでいらっしゃったのに」
「いや、構わないよ」
 ドアをばたんと開けてエドワードに近づき、幼い子供がエドワードの服を引っ張って促す。それに苦笑しながら、エドワードは子供の頭に左手を置いた。
「勉強しないで遊びほうけるところは私に似たのか。まぁでも、とりあえずはまずお母さんの言うことをきいてからだな。私はいつでも待っているから」
 おいしいお菓子も用意して、な?と頭をぽんと叩けば、子供はいったん嫌そうな顔になり、けれど渋々と了承の意を示した。母親がエドワードに一礼して、子供の肩を押しながら部屋から出ていく。
 賑やかな、しかし穏やかな家。
 なんて、幸せなんだろう、とエドワードは思う。


 アメストリスから門をくぐって自らの意志でこちら世界に来てから、アルと一緒にずいぶんと旅を続けた。結局、ウラニウムは見つけられなかったが。何かと世話を焼いてくれたヒューズさんやグレイシアさん、それに旅先で親しくなった人たちに支えられて、なかなかに軌道に乗った生活を送ることができた。
 そのうちにアルが結婚し子供が生まれ、その子供たちも結婚し、ついには孫まで誕生した。自分は関係が無いというのに、アル達は自ら進んで一緒に住み、家族のように接してくれた。
 そのことで申し訳ないと思う気持ちはあったが、同時に一人ではないということに嬉しくもあった。毎日が充たされていた、はずだった。

月日の流れというのは、とても早いものだ。あっという間に過ぎ去ってしまう。

 エドワードは何十年経っても何も変わらない右手を見つめる。機械の手、腕。それは付けてもらった当初から故障する事無く、未だに微細な動きを行なえる。大昔ならありえないな、とエドワードは右手を握って、そしてまた開いた。
 この世界に帰って来てから機械鎧の手入れだけは、欠かせたことはなかった。
 エドワードは皮肉な笑顔を浮かべる。そしてそのあと、右手とは対照的に幾通りにも皺が刻まれた自分の左手を見やった。
 皺くちゃの手足、そして顔からは昔の自分なんて思いつきもしない。機械鎧とその皺だらけの身体のコントラストに、エドワードは笑いが込み上げてきた。
 年をとらない人間なんていない。変わらない人間なんていない。けれど、エドワードの中には今も変わらない人物がいる。
『エド!』
 思い描いても思い描いても、浮かぶのは若く美しい少女の姿。金髪の長い髪を揺らして、瑞々しく笑う少女の残像。時は容赦なく自分も彼女も巻き込んで進んでいるというのに、自分の中の彼女は未だ、10代の姿を保っている。
 エドワードはベッドに倒れこんで、目を閉じる。
 彼女は今どうしているのだろうか。何も言わずにアメストリスを捨てた自分を、まだ恨んでいるのだろうか。それとも、自分のことなどすぐに忘れて大切な人が出来たのだろうか。
 そうだったらいい。そうだったら、どんなにいいことか。
 けれど、いつまでも自分だけを思っていてほしいという気持ちがあることも確かで、エドワードは自嘲する。
 白いシーツの海に身体が沈んでいく。少し、眠気を覚える。このまま眠ってしまうのもいいかもしれない。エドワードはそう考えて、ベッドに身を委ねた。
 ゆらゆらと白濁していく意識。それをより深いものにするために、エドワードは伏せた目蓋の上に重い右腕を乗せてみた。
 カシャリ、と金属の音がする。冷えた、鉄の重みを感じる。その感触だけは昔から変わらずで、エドワードは一気に過去を遡っていくような感覚に陥った。
 くるくると回る思考回路。その最奥にある淡い金色の光にエドワードは手を伸ばそうとして。
 そして、そして――――――――――――



「エドお祖父ちゃん、勉強終わったよ!」
 パタパタと廊下を駆けぬける足音。ばたりと扉が開く。
「あれ?」
 幼い子供の高い声が部屋に響く。
「エドお祖父ちゃん、寝ちゃったんだ………」
 エドワードは右腕を額に乗せたまま、静かに、横たわっていた。
 窓の外を、さわさわと風が通り抜ける。草木が揺れる。空は何処までも蒼穹で、雲は相変わらずゆっくりと流れていく。ゆっくりと、流れていった。