失敗した、と思った時には時すでに遅し。オレはそれまで考えていたことなんかをすぐに払拭して、はっと我に返るように手の動きを止めた。
 手の内のボウルの中では、キメ細やかな白色が、もったりと泡立て器にからんでいる。銀色のボウルが鈍い光を反射して、対照的な白色をよく映やしている。誰がどう見ても間違えるはずのない。そこにあるのは、立派なメレンゲ様のお成り、のはずだった。
メレンゲ作りは別に嫌いというわけではない。むしろ、どうやらオレの腕力はメレンゲ作りに向いているらしい。別段途中で根をあげることもなく、短時間でそれを完璧に仕上げてしまえる。角をたてることなんて当然のごとくおちゃのこさいさいだ。ピンと真っすぐに立った角を見るたびに、何だか無性に誇らしげな気持ちになってくるものだった。
 昔の鍛練の賜物だとか、しなやかな筋肉のついたこの優秀な腕のおかげだとか、とりあえず勝手に自画自賛をしておいた。言ったところでどうせ身内には苦笑や失笑を買うだろうから、これはオレの胸の内だけに秘めておく。そんなんでわざわざ笑われに行くだなんて、至極たまったもんじゃねぇ。
 そもそも旅が終わったあとも、癖というのか何つーのか、それなりに身体を動かしていた。だから腕に付いた筋肉が衰えているということは決してないことだった。華麗に体術をこなしていた腕は、今や体力とスピードの勝負といっても過言じゃない、おいしい料理やお菓子を作る腕として、毎日朝昼晩と活躍している。
 そりゃあ、まあ、最初の頃はひどかった。玉葱やキャベツの食用部分がどこだかわからなくて、全部皮だと思って捨てたり、頻繁に鍋を焦がしたり。ウィンリィの仕事のサポートのために主夫をすると宣言したのに、むしろあいつにいつも以上の迷惑をかけてしまって、もう思い出すかぎり散々だった。怒るのを通り越して呆れた目であいつに見られた時の、あの何とも言えない居たたまれなさ。あんなのはもう御免であるし、それに何よりオレのプライド的にもあそこまでの失態続きは真っ平ってもんだった。
 だから久しぶりに必死になって、あれやこれやと習得しはじめた。掃除の仕方から洗濯や整頓の手順、料理はゆで卵から始まって、最近じゃあレシピを見なくてもケーキを焼けるようにまでなったいった。なめんなオレの根性、ってなもんだ。確かに家事の世界ってーのは奥が深い。まだまだわからないこともある。けれど、深いながらも、それでも国家試験を受けた時と比べれば、ンなのちょろいもんだった。当たり前のことながら、オレは自分で自分の腕前をそれなりに自負していた。

 だが、優秀なオレのこの腕は、今回ばかりはちょっとばかし有能すぎてしまったらしい。
 穴が開きそうになるくらい、手に持ったままの銀色のボウルをじっと見つめてみる。1度ゴシゴシと目蓋をこすって、もう1度見直す。だが何回真剣に眺めたって、残念ながらボウルの中身が変わることはなかった。オレの手にある銀色のボウルには、数ヶ所小さな穴が開いた真っ白なメレンゲがあり、そしてその上にはうっすらと水分が浮かんでいた。 分離だ。明らかにメレンゲが分離している。
「…………あー、たかがちょーっと泡立てたぐらいで分離するまでになるなんて、ははっ、オレってばメレンゲ作りの天っ才」
 ひとまずボウルをテーブルにおいて、ふぅとかいてもない汗を拭ってみる。
「って、ちがーう!」
 そんで自分に自分で突っ込んだ。
 ノリツッコミ上等。セルフ突っ込み万歳。それくらい動揺してるってことを、ぜひとも誰かに察してほしい。
 分離したっていうことは、すなわちそれはメレンゲを泡立てすぎてしまったということだ。確かにいつもよりかは、腕が引きつっているような感じがする。引っ張られるようなピリッとした痛みがわずかながらも腕の筋に残っていて、何だか少し変な感覚に囚われていた。
「あーー……」
 痛みが和らぐように腕をぶらぶら振ってみる。それでも仄かに感じる電流はオレん中から出ていく様子も全くもってみせなかった。
 筋肉痛になることはないだろう。だが、それにしたってこの感覚は久しぶりだ。いったい何分泡立てていたんだろうか。そう疑問に思って近くの時計に視線をやってみる。けれど、結局疑問は一向に解決されなかった。何たって、何時何分に泡立て始めたかなんて覚えてもいないんだ。時計がいくら現時刻を正確に示していたって、皆目検討も付くはずがない。
 感覚的には「ちょーっと」泡立てただけのはずだった。だが目の前のメレンゲを見るかぎり、オレの腕力を鑑みれば、ちょっとという時間には納まり切れないほど泡立て器を振り回していたのだろう。はぁと思わずオレは大仰にため息を吐いた。
 こういう時ばかりは、逞しく顕在する腕の力を嘆かずにはいられない。いくら意識を違う方向に向けていたからといって、この状況はなしだろう。せっかく久しぶりに紅茶のシフォンでも作ろうかと思ったのに。せっかくここまではうまくいったと思ったのに。がくりと肩を落として、オレは落胆を顕にした。
 紅茶のシフォンを作るのは今日を含めてこれで2回目だ。普段のおやつには簡単に作れて日持ちのするクッキーやラスクを選びがちだから、ケーキを焼くのはその実、結構めずらしいことかもしれない。しかも比較的作るのがめんどくさいシフォンケーキだ。材料が揃ってなかったら、作ろうという選択肢が浮かんでこないお菓子ナンバーワンである。
 ただ前に、レシピを手に入れた嬉しさに気合いを入れて作った時に、あいつが、ウィンリィが、すごく絶賛してたのを覚えてる。んーっ、とほっぺに手を当てて、見たことがないくらい幸せそうに笑ってた。
 べ、別に今回は、朝から部屋に籠もって仕事してるあいつを、喜ばそうと思ってこれを作ろうとしたわけじゃない。たまたま。そう、たまたま!いい茶っ葉をアルから貰って材料が揃ったから、何となーく、てきとーに、今日のおやつに選んだにすぎないんだ。
 卵黄ベースの生地まではかなりいい調子だった。すーっと生地はなめらかにヘラから落ちていって、ダマなんか1つも見かけられない。これならふんわりいい具合に焼き上がると、たっぷりとした自信を持っていた。メレンゲ作りだって得意中の得意だ。だから余裕を持って、鼻歌混じりで、あいつの驚いて喜ぶ顔を想像して卵白を泡立てていた、のが、………………おそらくきっと絶対、ダメだったんだろう。
 今の今に至るまでのことを思い起こして、オレの心は徐々に、かつ盛大に沈んでいく。
 つか、しょっぱい。かなりしょっぱい。しょっぱいにも程がある。
 沈んだ精神は中々浮き上がって来ることはなく、げんなりと落とした肩はますます高度を下げていった。顔には青い斜線が入っていることだろう。
 がーっと喚きたくなってくる。だが口元まで出かかっている叫びをどうにかとどめておいて、代わりにがしがし頭をかいた。
 ぽそぽその卵白は面白いくらいボウルの中で盛り上がっていて、無防備なオレに攻撃を仕掛けてくる。
 分離したメレンゲの攻撃。エドワードは精神的に50のダメージを食らった!
 このままだとこの凶悪なメレンゲに、オレのプライドはズタボロにされてしまう。だがいかに避けようとしても、ほんの僅かでも銀色が視界に入ってしまうのは悲しき事実だ。避けられないのなら仕方がない。あー、と頭をもたげて、オレは曖昧ながらも決心する。ここは強行手段に出ようというものだ。
 息を吸って身体全体に空気を染み渡らせて、次に肺の奥底から思いっきり二酸化炭素を吐き出していく。そして息を整えたのと同時に、周りに置いた生地やメレンゲを見渡した。
「…………………やって、やれねぇこともねぇよなー」
 キョロキョロと、一瞬、辺りに誰もいないか確認したのは何となくだ。別に悪いことをやらかすってわけじゃないが、何となく、気分的に視線が動いた。
 メレンゲのボウルをそっと手繰り寄せて、ゴムベラでさっくりと混ぜ合わせる。浮き上がった水分を誤魔化すように手早く混ぜ込んで、そしてそのまま数回に分けて、卵黄の生地にぶちこんだ。
 ボウルの中では、卵黄の黄色とメレンゲの白色が溶け合って、きれいなクリーム色が波打ってる。
 すっかり混ぜ合わせたあとのそれは、たまに作っていた時のそれと、それほど変わらぬ姿になっていた。
「いけんじゃね?」
 そう呟いても、仕方がないことだと思う。
 確かに少し水っぽいような気はするが、気のせいと言われたらそれまでの領域、のはずである。
 覗き込まれるボウル。なだらかなケーキ生地。ガッツポーズをするオレ。
 傍から見りゃあ変な光景だろうが、そんなもん関係なかった。どうせ誰も見ちゃいないんだ。高々と勝利のポーズを決めてみせる。
 これはもしかしたらうまくいくかもしれない。ダマもないし、まだ生地も萎んでいない。
「オレ。天っ才」
 思わずフハハハハハと高笑いをあげたくなってくる。なってくるだけじゃなくて、実際あげた。
 だって仕方がないだろう。一時は絶対に失敗すると思ってたんだ。ぺしゃんと潰れたシフォンケーキ。考えるのも無残なその姿に、ならないという可能性が芽生えたなら、その時点でオレはオールオッケーだ。むしろ今なら、失敗しても別にいいような気がしてきた。何せオレは頑張った。
 込み上げる感情の高ぶりをそのままに、意気揚々と、出来たての生地を型に流し込んでいく。と。
「なにバカみたいに笑ってんのよ、あんた……」
 聞く予定のなかった声を耳にして、オレは危うくボウルを取り落としそうになってしまった。
「うぉ!うぃ、ウィンリィさん!?おまっ、仕事は?」
「一段落着いたから休憩よ休憩。ちょっとね。根を詰めすぎちゃったのか、もう目がしょぼしょぼしちゃって」
「さ、さいですか……」
 本人の言う通り、目が結構な限界を訴えているんだろう。目の下の血行が悪くなっているような、うっすらとくまが出来ているような気もしてくる。
 大きくあくびをしながら、ウィンリィはオレの動揺なんか全く気にせず、疲れをとるように思いっきり腕を上に伸ばしている。
 オレはといえば、落としかけたボウルを抱え込んで、そのまま慌ててケーキ型と一緒に後ろ手に隠した。
 何だろうか。こいつに声を掛けられた時から、妙にちくちく、心が痛いような気がする。何をしているか一目瞭然であるにもかかわらず、無意識にボウルや型を身体の影で見えないようにしようとしていた。
 後ろのものについては深く突っこまないでくれ、と念を送る。だが、オレのテレパシーは未だ一度も成功したことがなく、それにそう思えば思うほど、逆転の物事が罷り通っていく世知辛い世の中だ。
「あ、今日のおやつはケーキなんだ」
 何か弁解をする間もなく、あっさりと見つけられてしまった。
「めずらしいわね、あんたがケーキ焼くなんて」
「ま、まぁ、たまには、な」
「いいことでもあったの?」
「何でそうなんだよ。たまたまだ、たまたま」
「たまたま?」
「そう。ちょうどアルにいい茶っぱ貰ってたから、前に作った紅茶のケーキでも作ろうと思ってよ。……お、おまえ前に好きだって言ってただろ?」
「紅茶のケーキって……、あっ、あのシフォンケーキ!?」
 途端、こいつの顔が明るくなった。ひょいと身を乗り出してオレの後ろを覗き込んで、嬉しそうに微笑んだ。
「もう一回食べてみたいと思ってたのよ、それ」
 にこりと笑いかけられたことに、どきりとしたのは否定しない。顔はさすがに赤くはなっていないだろうが、嬉しいものは嬉しいんだ。だが同時に、さっきから続く心臓を針でつつくような痛みが、殊更増したのも事実だった。
「えへへ、期待してるから」
「お、おう、まかせとけ」
 ドンと胸を大げさに叩くと、ウィンリィはくすくす笑って頷いた。
 痛む心臓。きっとこれは、どうしょもない自尊心と罪悪感の成れの果てだ。
 ケーキがうまく焼けるかどうかの確率は結局五分五分。焼き上がってみるまではどうなるのかわからない。期待されているものを失敗するのは、オレの主夫としてのプライドが許さなかった。
 ケーキ生地は型の中で、まだ気泡が潰れてしなってはいない。こっそりため息をつこうと視線を逸らすと、コーヒーを注いでるウィンリィと目が合った。
「楽しみね」
 そう笑うもんだから、失敗するかもしんねぇとも言いだせない。
 絶対成功しろうまくいけ頼むからふくらんでくれ。脳細胞をフル活用して念じながら、オレはオーブンの取っ手を回した。



08.ノープロブレム



(エドウィン好きに100のお題より)