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暗い暗い闇の中。
小さな小さなベランダで。
たった独り人影がぽつり。
僕の視線は外せないまま――――――
冷たい月
暑い。なんて暑いんだろうか。布団に入って数時間。掛け布団はおろかタオルケットでさえも足元に蹴りやった今も、僕の全身からはだらだらと汗が流れ続けている。ああ、暑い。暑すぎる。
タオルケットまで蹴りやったといっても、何故だか僕の身体にはまだそれが掛かり続けている。おかしい。
暑すぎて虚ろになってくる目で両隣を見てみると、兄ちゃんと姉ちゃんがそれぞれ僕のほうにタオルケットを跳ばしてきていた。くかーくかーと、幸せそうに二人はぐっすりと眠っている。熟睡している。
あぁ、もうなんだって兄ちゃんも姉ちゃんもそうなのさっ!その熟睡している姿を見ていると、何だか僕はちょっとだけムカっとしてきた。だ、だって普通そうじゃない!?僕は暑くてうなされてたってのに、この二人はよりにもよって僕にタオルケット押し付けた挙句熟睡してるなんて。そんなのちょっと不公平だよっ!
普段はこんなこと思わないのに、やっぱり暑さの所為で僕の脳みそはまいってしまってるんだ。
ほんと、今すぐ氷で出来た城を建ててそこに住みたい。それが出来ないなら、水浴びか、冷たいものをお腹が千切れるぐらい目一杯食べたい。兄ちゃんと姉ちゃんに勝手に掛けられて僕を包んでいるタオルケットを今度こそ蹴飛ばして寝返りを打ちながら、僕は今まで食べたことのある冷たいものを想像する。
かちかちのアイスにシャリシャリのかき氷。つるんと喉に通るゼリーや水羊羹。そういえば、今日の昼に飲んだお祖父ちゃんたちのお土産のド、ド、ド………なんたら国のリンゴジュースは今まで飲んでいたリンゴジュースとは段違いに美味しかった。思い出すと、あの味が口の中に広がってくる。
飲みたい。すっごく飲みたい。
思い出せば思い出すほど、暑さなんか気にならないくらいお腹がきゅうきゅうする。前に、夜中に勝手にジュースを飲んだことがばれて虫歯が出来たらどうするんだと怒られたことがある。でもあの時は兄ちゃんがうっかりコップを元の場所に戻すのを忘れてたからばれたわけで、洗って戻したらきっとばれないだろう。うん。
名案を考えて、僕の胸はドキドキしっぱなし。隣で寝ている兄ちゃんにも姉ちゃんにも見つからないようにそろりと障子を開けて、僕はそそくさと部屋を出ていった。
僕たちが眠っている部屋から台所までは少し遠い。誰も起きてきませんように。そう願いながら抜き足さし足と忍び足で歩いていく。むわりと蒸し暑い空気が僕を包むけど、そんなことは気にしない。僕には冷たくて美味しいリンゴジュースが待っているんだ。そう考えながら茶の間に出ると、さらに暑さが増した気がした。
外はもう真っ暗で、月だけがくっきりと空に浮かんでいた。
それが少し怖くて、それに暑くて、急いでここを通り過ぎようと思った。だけど、不意に目の端に捕らえたものが、僕を立ったまま金縛りにあわせた。
そこにいたのは、暗闇の中でゆらりとテラスに立っている人影。普段は優しく静かな、僕に対しては常に笑みを絶やさないエドお祖父ちゃんが、厳しい顔で月を見つめていた。
こんな顔は知らない。こんな雰囲気も知らない。
知らず知らず、暑さとは別の汗が僕の背中に流れ落ちる。何だか、怖い。優しくて大好きなのに、エドお祖父ちゃんのことを怖いと思ってしまう。
踏み出そうとして出来ない足をなんとか奮い立たせて、精一杯ここを離れようとする。けれど、持ち上がった足は汗に濡れていて、そのせいで滑って、僕は盛大にずっこけてしまった。
「っ……!」
打ち付けたお尻をさする。結構いい音がしたのにそれ以降物音がしないというのは誰も起きなかった証拠だろう。それにほっとして目の前を見ると、テラスの真ん中でエドお祖父ちゃんが目を見開いて僕のほうを見ていた。
「え、えへへへへ」
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。急いで立ち上がって僕はエドお祖父ちゃんの傍に寄った。その時はもうさっきの雰囲気は全然消えていて、エドお祖父ちゃんはいつものエドお祖父ちゃんだった。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫!」
心配そうに、僕の目線に合わせてエドお祖父ちゃんが尋ねてくる。僕はただ気恥ずかしくて、握り拳をつくって力一杯答えた。そんな僕にエドお祖父ちゃんは静かに笑って、すっと立ち上がって、僕の頭を左手でくしゃりと撫でた。
この手が、僕は大好きだ。しわくちゃで少し骨張ってはいるけれど、優しくてあったかい。
ゆるゆると目線をあげると、やっぱりエドお祖父ちゃんは穏やかに笑っていた。
エドお祖父ちゃんは僕に甘い。こんな夜中に起きている僕を怒らず、尚且つさっきのことなんてなかったかのように、静かに笑っていた。
普通のエドお祖父ちゃんに戻ってくれたのはすごく嬉しい。
すごく、嬉しいけど、でも、さっきのが何だったのか気になることも確かで、僕は口を開いて、そして何も言わないまま閉じることを繰り返した。
聞いてもいいことなんだろうか。僕なんかが聞いちゃってもいいんだろうか。
けれど、いつも優しいエドお祖父ちゃんを変えてしまっていた原因を知りたいという好奇心が、怖いけど、僕の中で何よりも勝ってしまった。
「ね、ねぇ、エドお祖父ちゃん!」
「なんだ?」
僕は拳を握る。汗が手のひらの間をつっと流れる。
「こ、こんな時間にこんなところで何してたの?」
心臓が壊れるくらいばくばくしてる。もしかしていけないことを聞いたのかな。エドお祖父ちゃんは一瞬びっくりして目を見開いたけど、すぐにクスリと目を細めた。
「だったら、お前こそこんな時間に何をしているんだ?」
「あ……」
まさかそんな返しが返ってくるとは思ってもみなくて、しまったと思った。暑くて寝れなかったのは事実で、冷たいものが欲しくてリンゴジュースを飲もうと思って、それで部屋を出てきたのも事実だ。
夜中にそんなことで起きてきたと知ったら、エドお祖父ちゃんはやっぱり怒るだろうか。怒られたくは、ない。
暑さとエドお祖父ちゃんに問われたことでぐるぐるとする頭で、僕は一生懸命言い訳を考える。どうしようどうしようどうしよう。うんうんと言い訳を考えるけど、一向に良い言い訳が思いつかない。
伺うようにちらりとエドお祖父ちゃんを盗み見ると、エドお祖父ちゃんは僕なんか見ないで、じっと揺るがない視線で月を見ていた。
「エドお祖父ちゃ」
「知っているか?」
呼び掛けようとして、急に問い掛けられて僕は口を閉じる。エドお祖父ちゃんは相変わらず月を見たまま。
「知っているか?ドイツではな。月には罪人がいるって言い伝えがあるんだよ」
ドイツドイツ。どこかで聞いたことがある。ああ、そうだ。そういえばお土産のリンゴジュースはその国で作ったものだって言っていた。思い出せてちょっとスッキリ。けれど。あれッ。罪人…………って言葉はよくわかんないけど。でも月にいるのは、
「月にいるのはウサギだよ?」
だって月ではウサギがお餅をついているってこの前読んだ本に書いてあったし、お母さんもそう言ってた。それをエドお祖父ちゃんに伝えると、エドお祖父ちゃんは苦笑してまた僕の頭を左手で撫でた。
「日本ではそう言うんだけど。ドイツではそういう言い伝えがあるんだよ」
ということは、月にはウサギと罪人、とやらが一緒に住んでるんだろうか。エドお祖父ちゃんがそう言うんだからそうなんだろうけど、あんまり想像がつかない。一生懸命、僕は月の様子を思い浮べる。すると、
「オレも罪人なのに。いったいいつになったら月に行けるのだろうか」
不意に、ぽつりと小さな声で言ったエドお祖父ちゃんの独り言は、月について考えていた僕の耳にも届いて、僕ははっとエドお祖父ちゃんを見上げる。
月を見つめるエドお祖父ちゃんの姿は、今にもどこかに行っちゃいそうで、消えちゃいそうで、僕は思わずエドお祖父ちゃんの服の裾をぎゅっと握ってしまった。
「どうした?」
エドお祖父ちゃんの問い掛けにも僕はふるふると頭を振って、いやな考えを頭から追い出す。
僕はなんて馬鹿なことを考えているんだろうか。エドお祖父ちゃんが消えちゃうわけないのに。ここにいるのに。
「なんでも、ない」
そう言って手を離すと、エドお祖父ちゃんはただ一言「そうか」とだけ言った。
月は相変わらずはっきりと空に浮き出ていて、不気味に感じる。
「お祖父ちゃんにはね。謝りたい人がいるんだ」
その月の光を受けて、エドお祖父ちゃんの顔はいつもより青白く見える。暑いのに汗なんかかいてなくて、一人だけ別の場所にいるように思ってしまう。
「謝りたいなら。すぐに謝っちゃえばいいんじゃないの?」
「ああ、そうなんだけれどね。そうなんだけれど。もう、無理なんだ」
「どうして?」
エドお祖父ちゃんの視線がゆっくりと僕を捕らえる。カシャリ、とエドお祖父ちゃんの右手が、妙に音を響かせたような気がした。そして冷たい冷たい月を背景に、エドお祖父ちゃんは言った。
「もう、何もかもが、遅いんだ」
一言一言を区切って言ったのは、たぶん僕のためじゃなくて、自分に言い聞かせるためなんだろう。エドお祖父ちゃんは、なんて言っていいのかわかんない顔をしながら、けれど哀しそうに辛そうに笑っていた。
僕はそんなエドお祖父ちゃんに何も言うことが出来なくて、ずっとずっとエドお祖父ちゃんを見つめ続けた。
月が、止むことを知らずにぼんやりとした光を放ち続ける。空気は相変わらず蒸し暑くて、蝉がうるさいぐらいミンミンミンミン鳴いている。暗い暗い真夜中。エドお祖父ちゃんがもう寝ようかと言うまで、僕達はずっとそこに立ったままだった。
あれから3ヵ月後に、「エドお祖父ちゃん」は死んだ。至極、安らかな顔をして。曽祖父の名前を呼んだあと、誰も知らない、異国の女性の名前を呼んで。
「エドお祖父ちゃん」にとって、僕達家族は何の意味があったのだろうか。異国の女性の名前を呼んで「エドお祖父ちゃん」が死んだあと、曽祖父だけは何かに耐えた顔をしていた。
聞いても、きっと曽祖父は何も話してくれないだろう。だからそのことについて、僕は憶測することしか出来ない。
ただ僕が漠然とわかったことは、死ぬ直前に「エドお祖父ちゃん」が名前を呼んだかの女性こそが、蒸し暑く蝉がうるさかったあの幼き日に話してくれた「エドお祖父ちゃん」にとっての謝罪をしたい人なんだろうということ。そのことだけ。
なんたってあの話を聞いたときとは違う。年を重ねて、それなりの経験を一通りした今ならわかるのだから。
あの時の「エドお祖父ちゃん」の表情は、ここではない何処かへの憧憬と、深く沈んだ後悔と、懐古。それに、とどまることを知らない未だ溢れる恋慕の情が入り混じったものということを。
きっとそれはどうしようもないほどの感情。辛いほどに枯れない想いは、ただ胸に溜まって、人はそこで溺れてしまう。
「エドお祖父ちゃん」は、幸せにいけたのだろうか。それとも、罪人として月へ行ってしまったのだろうか。
もちろん、月にはウサギも罪人もいやしない。あるのは、ただ淡々と続く地面だけ。けれど、僕はときどきそう考えてしまう。
だって月はあの時と同じように冷たく輝き、相変わらず不気味に浮かんでいる。
暗い暗い闇の中。
小さな小さなベランダで。
たった独り人影がぽつり。
僕は視線を外さないまま。
僕の、視線は、外せないまま。
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