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夏がくれば思い出す。
鼻を掠める夏草の薫り。不器用なあの頃。
青空を見れば思い出す。
胸の奥に潜むココロ。じくりと走る、愛しい痛み。
縁側に腰掛けながら、エドワードは外を見つめていた。数年前にやってきたこの家は、彼女が過ごしてきた長屋とはまったく違っていた。
ただ1つ同じものは、むせ返るような夏草の薫り。それだけ。
ぼんやりと空を見つめている。
すると、不意に後ろから誰かに声をかけられた――――――――――――
*
夜の闇に広がる灯りやざわめきとは対照的に。風の吹く音しか聞こえない真っ昼間。街は他の場所と遮断するよう四方を壁で遮られ、唯一出入りが出来るところは、昼夜と問わずに用心棒が立っている。
明らかに隔離された街。それもそのはずだろう。ここは多くの密事が大っぴらに蠢く街なのだから。ある人はここで取り引きを交わし合い、またある人は弱みを握るためにここに通い、そのまたある人はここを純粋に楽しむために訪れる。
すべての情報はこの街に集まり、そしてひっそりと流れゆく。
ここは花街。
あらゆる人が一堂に介する、けれど閉ざされた街。
その街の、比較的大きな長屋の中で、少年特有の少し高い声が響いた。
「エドっ!」
怒気がこもった声で叫びながら、短く金髪を切り揃えた少年が廊下を急ぎ足で歩く。怒りが心頭しているためか、少年は周りを気にせずにずんずん進んでいく。
また息まく少年に近づくものは誰もなく、近しい友でさえ声を掛けられる雰囲気ではない。襖を少しだけ開けて、ただただこの店の跡取りである少年の様子を見るだけだった。
なので、難なく彼を目的の場所に辿り着かせてしまう。
先程から少年が呼び続けている人物がいる部屋の前。そこに立つと少年は目の前にある扉を見据えた。そして早足で来たせいで着崩れた着物を急いで直して、一呼吸おいたあと、とってに手をかけ遠慮もなしに部屋へと入っていった。
「エドっ!」
部屋に入ってもう一度目的の人物の名前を呼んでみる。すると、わずかだが奥の方で金色が動いたような気がした。目を懲らしてよく見てみると、その金色は少女で、長い金髪をゆるりと背に流して、気だるそうにこちらを見ている。
「あんだよ!?ウィンリィ。オレは眠ぃんだよ」
ギロリと少年を睨み付けて、エドと呼ばれた少女は不機嫌さをあらわにする。けれどウィンリィと呼ばれた少年は動じない。それどころか逆にエドを睨み付ける勢いで扉の傍に立っている。
「何だよ、って。何だよじゃないだろ!?何で………何で言ってくれなかったの!?」
エドを睨み付けたままにウィンリィは声を荒げる。何処にも余裕のない、緊迫感が漂う声色だったので、先程まであった不機嫌さが吹き飛ばされてエドは少し困惑した。ウィンリィはその直情的な性格から何かと怒鳴ることが多く、時には口喧しく説教をすることもよくあった。しかしそれは怒られるだけの正当な理由があった時のみで、今みたいに伝えたい用件も解らずただ怒鳴りつける姿はめったに見たことがなかった。
「何で言ってくれなかったの、って、いったい何のことだよ」
「それはアンタが…!」
あいにくと今回は怒られることをした覚えのないエドは訝しげに思いながら、じっとウィンリィを見つめる。カランと一度だけ、窓辺にある風鈴が音をたてる。ウィンリィは勢いのままに答えようとしたがそうはせず、フイっと視線をそらしてしまった。
部屋に立ちこめるのは夏草の匂い。夜になるとエドはもちろん香を薫くが、昼間は窓を開けて外の空気を取り入れるようにしている。
風邪を引いたらどうするんだ、とよくウィンリィに怒られたが、これがエドにとっては一種のリラックスの方法だった。夏草の薫りに包まれながら、どうしようかとウィンリィを見つめていると、不意にまだ彼が立ったままであることに気付いた。とりあえず座るように促してみる。しかしウィンリィは黙ったままで、エドは半ば強引に自分の前に彼を座らせた。視線は相変わらず逸らしたまま。そういえば、すっげぇ前にもこんな風にしばらく視線合わせてくれなかったことあったよな、とエドは苦笑する。
あれは確か、今と同じ蝉が忙しなく鳴き続けていた夏。
まだこの世界に慣れていなかった頃、エドはその潔癖さ故か嘔吐を繰り返して周りの者を心配させていた。もともと小柄な身体をよりほっそりさせてそれでも働き続けた姿を他の者は遠巻きに見ているだけだったが、ウィンリィだけはそんなエドを叱りつけた。その時、先程のようにウィンリィは怒鳴りけれど急に押し黙り、そのあと真剣な眼差しで逃げようと言ってくれた。エドはともかく、この店の跡取りであるウィンリィがここから逃げ出すなんてことは到底無理だ。だからエドはその気持ちが嬉しくて嬉しくて嬉しくて、今もそのことを鮮明に覚えていた。
近ごろよく過去を思い出すのはあの事の所為だろうか。けれど内容が違えど、今の状況はその頃の雰囲気と非常に似ている。大人になってしまった今では、「逃げよう」なんて言葉を“聞く”ことは出来なくなってしまったけれども。
「……アンタ、さ」
それまで沈黙を守っていたウィンリィが静寂を破る。
「…………身請け受けるって、本当?」
固く、ウィンリィは拳を握る。聞いた瞬間、エドは目を見開いた。
「オレ、お前にそのこと言ってねぇはずだけど?」
「シェスカから、聞いた」
「そっか……」
ここの主人であるピナコの従者的立場であるシェスカなら確かに、エドの身請けの話を聞き、それをウィンリィに伝えることも出来る。それにこの話はピナコとエド、そしてエドの身請け人の間だけで話し合われたことであるが、別段隠していたわけではない。誰かにそのことを問われたら答えるだろうし、それに女という生き物は情報が早い。おそらく当事者が改まって話をしなくても明日にはこの話題が店中に広まっていただろう。
けれども。
「お前にだけは、知らないでいてほしかったんだけどな」
とても不可能なことをウィンリィに聞こえないようぼそりと独りごちる。何といっても彼はこの店の跡取りなのだ。一番最初にこの情報をピナコから知らされる権利を持っている。ウィンリィだけに知られたくないのは自分の我儘。きっとそれは、胸に息づくとある愚かな感情の所為だろう。それを認めて、エドは自嘲する。
「本当、なんだ……」
先程より幾分か青白い顔でウィンリィが呟いた。それにエドが相槌を打つ。
「なんか、さ。政府の高官なんだ、オレの身請け人。すっげぇ金持ちでよ!まぁ、身請け申し出るぐらいだから金持ちなのは当たり前なんだけどさ。オレなんか囲っても全然余裕で……。贅沢三昧、させてやるとか言うぐらいで……………。お前、オレがここにいることよく思ってなかったし。………喜んでくれるよな?」
笑いながらのエドの問いに、けれどウィンリィは何も答えない。両の手を握って、ずっと下を向いている。
喜んでくれるだろ、とは。なんて残酷でずるいことを聞くんだろう。
エドの笑いも止まる。なびく風のみ時が流れているように、全てのものが静まり返る。その風に運ばれてくる夏草の薫り。普段は安らげるそれに、今は少しむせ返る。
何も動かない。
何も音がしない。
ああ、本当に。
今はあの時と酷似している。
「…………エド、」
「なぁ、ウィンリィ」
何かを決意して言いだそうとしたウィンリィを遮って、エドが口を開く。
あの時と酷似しているこの時に、何かを言わせてはいけないと直感したから。聞いてはいけないと確信したから。
たとえ望んだ言葉であったとしても、それは決して許されることではないのだから。
言葉を遮られて瞠目しているウィンリィに近づいて、エドは笑う。彼女が最も得意とする、こ憎たらしい悪戯な笑顔。
これさえあれば、自分はたぶん生きていけるだろう。そんな女々しい感情にエドは再び嗤う。けれど、それは勢いとはいえ自分の本心だ。
「なぁ、ウィンリィ。これ、くれねぇか?」
そう言ってエドが指したのは、ウィンリィの左耳に光る。彼の瞳の色と同じライトブルーのシンプルで小さなピアスだった。
自ら絆を断ち切っておいて、尚も彼と繋がりを持とうとする自分はなんて愚かな存在なんだ。
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