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アレはいつのことだっただろうか。それは確か、同居を始めて間もない時のこと。謳うようにハイデリヒが云った言葉に、エドワードは思わず飲んでいた水を盛大に噴き出した。
「初めて貴女と会ったとき、天使が舞い降りてきたかと思いましたよ」
何つーこと言いやがんだ、こいつ!?ゲホゲホと咽かえるエドワードはじと目でハイデリヒを見るが、彼は相変わらずただ静かに、あははと優しい笑みを湛えていた。
「天使ごっこ、やめよう」
「貴女は、ひどい人だっ…!」
壁に押し付けられた衝撃で、エドワードの背に鈍い痛みが走る。喉の奥からつい呻き声を上げそうになる。緩慢に拡がっていくその苦痛は、しかし肩にかかる痛みにより幾分か注意が逸らされていった。
ハイデリヒの手がエドワードの肩を、きつく掴んでいる。強く壁に押し付けている。だがその乱暴な行動とは裏腹に、彼の表情は今にも泣きそうだった。はらはらと、はらはらと。心の中では既に泣いているようだった。エドワードは、困惑した。
「僕の気持ちを知っていて、受け入れるふりをして、けれど貴女は僕を見てはくれない。見ようともしないっ。エドワードさん、貴女は、本当に、ひどい人だッ…!」
絞りだすように声を出す。ハイデリヒは、この行動がただの八つ当たりでしかないということに気付いていた。
エドワードが自分を見ていないということは、出会った当初から知っているつもりだった。彼女が常に見つめるのは“アルフォンス”であって、“アルフォンス”ではないのだ。そんなことは分かっていた。理解しようとしていた。そしてそんな彼女でもいいと、納得したのは自分だった。
エドワードがハイデリヒの気持ちを受け入れたといっても、それは同居の少し前に「好きです」と告げられた言葉に、少し複雑そうな顔をして、そのあと恥ずかしそうに下を向いて顔を真っ赤にして、「サンキュ」と彼女が云った事実それのみだった。
研究仲間が見ても、2人はとても“友好”的な関係だった。それは同居してからも変わりなかった。同居を始めても、彼らの間に何か起こることは終ぞなかった。
エドワードが自分を見ないことについてを責める権利を、ハイデリヒは持っていない。少なくとも、ハイデリヒはそう思っている。だが感情が、理屈を易々と追い抜いてしまったのだ。既に理性の限界は越えてしまった。
あまりに感傷的な自分の言葉に、ハイデリヒは自嘲を零しそうになった。否、もう既に全てを嘲るような自嘲をしたのかもしれない。
目の前を見れば、ぱとりぱとりと瞬きを繰り返す黄金の瞳。
怖れは、見えない。ただ純粋に、困惑を映し出している。
純度の高い蜜のような瞳。それはあまりに美しくて毒を持っているかのようだった。
金色の瞳の中に自分の姿を確認して、ハイデリヒは徐々に己の激情がおさまっていくのを感じた。なんて莫迦なことを、と自分自身に失望する。
「…す、すみませ…ん…でし、た」
肩から手を放す。ハイデリヒはもうエドワードの顔さえ見ることが出来なかった。くるりとエドワードに背を向けて、ハイデリヒはこの場から去ろうとした。だが、去らなかった。去れなかった。エドワードがハイデリヒの腕を、しかと掴んだのだ。
「エドワードさ…?」
「そうだよ、オレはヒドイ人間なんだ」
論文を発表するように、淡々と事実だけを述べるように、エドワードははっきりとそう告げた。ハイデリヒは僅かに目を見開いた。自分で云ったこととはいえ、このような返事が返ってくるとは思ってなかった。黙り込むハイデリヒの腕を握ったまま、エドワードは更に口を開く。
「無意識にきっと、お前に弟を重ねてるときもある。それに、お前の気持ち知って、ずっとそれを利用してた。オレが今ここにいることだってそうだ。親父がいなくなって1人になって、オレが好きなら何とかしてくれんだろ!?って思って、ここに来た」
紡がれていく言葉に、ハイデリヒは耳を傾けることしか出来なかった。エドワードは自らを嘲り嗤う。
「わかるだろう?オレは非道い人間なんだよ。最低の、人間なんだ」
反吐が出そうだと云わんばかりに、エドワードは吐き捨てる。苦々しく眉根を寄せる。
だが、ハイデリヒはより困惑した。違う、と漠然に感じた。
彼の心の中は、もはや矛盾だらけだった。
「ちがっ、違います。エドワードさんは非道い人間なんかじゃありませんッ…!」
先程とは真逆の言葉を、ハイデリヒは口にする。その様子は必死で、先程と矛盾してることも彼は気付かない。
彼女にとっては最大級の無理な問題を突き付けて、あたり散らしたのは自分。言い募った言葉も本心。けれどそれは、彼女自身には肯定してはもらいたくなかった。肯定するべき存在ではないのだ。
だって、彼女は―――――。
ハイデリヒの言葉に、エドワードは複雑そうに顔を歪めた。
「貴女は、ひどい人なんかじゃありませんっ。僕が勝手に我儘を押し通そうとしただけで、それで」
「なぁ、アルフォンス」
エドワードの顔も見ずに捲くし立てられるハイデリヒの言葉を、エドワードの声が遮る。静かな、静かな声色。
ゆるゆるとハイデリヒが視線をエドワードに向けると、今度は彼女のほうが泣きそうな瞳をしていた。
「エドワード、さん…?」
「なぁ、アルフォンス。お前は、オレがお前のこと見てない、って、言ったよな」
「……………それ、は」
「けど。お前だって、オレのこと見ようとしねーじゃねーか」
淡々と紡がれる言葉に、ハイデリヒは瞠目した。エドワードは、嗤おうとした。
「なぁ、オレは薄汚れた人間なんだよ」
嗤おうとして、口角を上げようとして、失敗した。くしゃりと顔が歪む。
「人間、なんだっ…!」
出した声は、エドワードが思っていた以上に揺れていた。
ハイデリヒはエドワードを何処か、神聖視している部分があった。だから彼は好きだと云っても、彼女に手を出さない。何もしない。
常に幾ばかりか、神聖なものを見るような目で、エドワードに接していた。
それがエドワードはたまらなく厭だった。そんな目で見てほしくなかった。自分はそんな感情を持たれる存在ではないのだ。むしろ正反対の存在だ。
罪を犯した。償いきれない罪をこれまで犯してきた。
だからこの世界に来たともエドワードは思っているのだ。あちらの世界で、あまりに罪を犯しすぎたために。
それ故に、ハイデリヒの視線はエドワードを困らせていた。無条件で尊ぶものだと、ハイデリヒの瞳にその気配を感じ取るたびに、エドワードの胸の内は罪悪感に満ちていった。
それに、嗚呼。エドワードは思う。“アルフォンス”は、弟は、そのような目でエドワードを見たことはなかった。常に彼の人の無機質な瞳は、姉に対する親愛だけを湛えていた。彼に彼を重ねたことはある。けれど、幸なのか不幸なのか、それだけが全てではなかった。
「オレは、お前の思ってるようなヤツじゃないんだよ、アルフォンス……」
トン、とエドワードは壁に背をつける。ハイデリヒの腕から手を離す。待っているのは沈黙なのか。ハイデリヒは瞠目したまま、彼女の手が離れていくのを見守った。
単純に云えば衝撃。身体中に雷電を浴びたように、感覚さえも麻痺しているようだった。
自分はこれまで、彼女をどういう目で見つめてきた?彼女には、出会ったときの印象そのままの汚れのないまっさらなイメージが付きまとっていた。
そんなことは、ありえないのに。
生きている以上、そんな人間はいないはずなのに。
ハイデリヒは茫然とエドワードを見やる。
互いの間に、壁を創っていたのは彼女だけでなく自分もであったのか。だとしたら、自分はなんと愚かしいモノを彼女に託し、そして云っていたのだろうか。
ハイデリヒは声を出そうとして、口籠もる。未だに全身が麻痺しているように感じられた。けれど、きゅっと唇を引き結んだあと、意を決して口を開いた。
「エドワードさん」
名前を呼ばれて、エドワードは不意を突かれた。ハイデリヒから逸らしていた視線を、反射的に彼に戻す。
やはり、彼の色素の薄い瞳は泣きそうであった。ゆっくりと、その口が動きだされる。
「エドワードさんは、エドワードさんです」
「…………」
「そして僕は、アルフォンス・ハイデリヒです」
「…………あぁ」
「僕たちは、どちらも、聖人君主じゃ、ありません」
一言一言を区切って、確認するように、自分自身に言い聞かせるように、ハイデリヒは言葉を舌に乗せていく。今にも涙をこぼしそうに、顔は歪められている。エドワードはぱちぱちと目を瞬いて、そして眉を八の字に下げた。
「そう、だな。知ってる。つか、お前については今知った?」
肩すっげぇ痛かったー、とエドワードはおどけてみせる。それにはっと我に返ったハイデリヒは慌てて謝ろうとした。
からからと、笑い声が響き渡る。静穏なる雰囲気。
それは常なるものに似通っているが、だが今回は何かが決定的に違っている。
それはここにいる者たちが“人間同士”であるからだろう。
ふと止まる空気。空間には、エドワードとハイデリヒの2人だけ。エドワードはハイデリヒを見つめながら、苦笑を零す。
「お前って、さ。物好きなヤツだよな」
「そんなこと、ないですよ」
いつのまにか握られていた手と手。触れ合うのは手のひら。それは温かく、瞳が纏う空気は艶めかしい。
磁石の異なる極が互いを熱望するかのように、引き寄せられるように、静かに、どちらともなく唇を重ねる。
触れるだけのキス。
何十秒とも思われる時間そうして一旦身体を離したあとは、今度は角度を変えて、何度も、何度も。絡まるる舌。吐く息は熱くなっていく。どちらのものか分からない唾液は顎を伝って、ぽたりと床に染みを作った。
純白の時代は畢ったんだ。あとはただただ堕ちていくだけ。
(何だかお題/squeezed orange)
ふぃ、フィーリングでお願いします…!(ドババババッ)(滝汗)
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