本当は、恋心なんてとうの昔に自覚していた。



道化師の螺旋階段



「好きだよ」
 司令部に着いて数十分が経った頃。紅茶を持ってきた中尉が出ていき二人きりになった執務室で、報告書を提出しようと鞄を漁る手を止められて真剣に告げられた言葉に、エドワードはただでさえ大きな目を見開いて目の前の上司を凝視した。今何つったんだコイツ…?まさに青天の霹靂。ぱちくりと瞳を瞬かせてエドワードはその場に立ちすくんだ。
 聞こえなかったわけではない。無論、意味が分からなかったわけでもない。ただ単純に、その言葉を理解することが出来なかった。

 人体錬成という最大の禁忌を犯してから約三年の年月。エドワードは旅をしながらがむしゃらに元の身体に戻る方法を探し続けた。行くあてもない旅路は危険が多く、少しでもその危険を避けるためにと本来の性を偽り男として生きてきた。
 別にそのことでこれといった苦労はしてこなかった。エドワードという名前はどういう理由で付けられたのかは知らないがれっきとした実名であったし、元来男勝りな性格であったため口調も別段変える必要がなかった。ただアルフォンスに「兄さん」と呼ばせることが、少しこそばしく罪悪感を感じさせたが、それも慣れてしまえばどうってことなかった。
 ずっとひたすらにエドワードは元の身体に戻る方法を探し続けた。他のことなんてまったく眼中になかった。自分と同じ年代の少年少女達が夢見る恋なんてやっかいで甘酸っぱいものは、まったくもっていらなかった。
 それに、少女でも少年でもないエドワード。こんな自分をいったい誰が見てくれるというのか。
 自分のことはどうでもいい、と。まっすぐに、アルフォンスが元の姿に戻れるようにと祈ってここまで走り続けていた。

 それなのに、この男は今何を言ったのだろうか。

 呆然とするなかでエドワードはロイを見上げる。見つめたロイの顔は常にないくらい真剣だった。こんな顔をエドワードは見たことがなかった。冗談抜かせと、笑い飛ばせる雰囲気ではなかった。笑い飛ばせる余裕もなかった。こくりと喉が震える。危うく真っ白になりかけた頭で、エドワードは先程のロイの言葉を噛み砕こうとした。
 好き、好き。誰が、誰を?大佐が、オレ……を?嘘だ、嘘に決まってる。
「うそ、だ……!」
 ずいぶんとかすれた声を出してしまった。思わず口を衝いて出た言葉に、エドワードはその琥珀の瞳を揺らし、ロイは一瞬瞠目した。
「嘘ではない。本当に、私は君が好きなんだ。護りたいと、そう思うんだ」
 黒曜石のような真っ黒い瞳がエドワードを射る。再度想いを告げられたエドワードは何故だかつきんと下腹部が痛むのを感じた。そしてそれと同時に、胸の底で何かが騒めくような気持ちにもなった。怖い。頭の中で警鐘が鳴る。その気持ちに気付くことを無性に怖いと思った。けれど考えとは裏腹に、心はどんどんその気持ちに近づこうとしていた。
「うそだ」
 哂いたかった。笑って、嘘って言ってもらって。それでいつものように軽口を叩きあいたかった。それだけが今の自分の望みだった。
 本当に、それだけだった?
「うそだ、うそだうそだッうそだッ!」
 けれど考えれば考えるほどに胸の奥に燻っているモノが明確になる。それは、まぎれもない歓喜。自分にはなかったはずの気持ち。今までもこれからも、決して捕われることはないだろうと思っていた感情。それに気付いたとき、一気にエドワードは絶望の海に落とされた。呼吸がうまく出来ない。がくりと崩れてしまいそうになる膝を何とか堪えて踏みとどまる。信じていたものが根底から覆される気分だった。
「違う、違う!オレはッ、オレはそんな感情なんていらない!そんな気持ちなんか望んでない!オレが欲しいのは、オレが本当に欲しいのはッ、アルを元の身体に戻す方法だけなんだッ!」
 下を向いてエドワードは誰にともなく大声を上げる。喉がひどく痛い。カラカラに乾いている。ロイは驚いて、けれど次の瞬間には苦々しい顔となり、痛ましそうにエドワードを見やった。エドワードは小刻みに震えていた。
 そうだ。自分のすべてはずっとずっとアルだった。禁忌を犯したときも旅に出たときも元に戻れる方法を追い求めるときも、アルだけがいつも傍にいた。アルだけが幸せになればいいと願ってきた。アルのために、生きてきた。
 他を知らない無知な子供なのではない。それだけで充分だったんだ。



アルだけだったんだ。



アルだけだったのに。



 視界が滲む。力のかぎり握った所為でエドワードの左手は真っ白になっていた。何でこの男は今更になってこんなことを言うのだろう。好きだなんてオレの心を乱して、護りたいんだなんて胸の奥を探って。どうしてコイツはオレのいやがることをするんだろう。
 するりするりと影のように密やかに入り込んでくるロイの言葉に、エドワードは恐怖した。心の奥底にしまい込んでいる感情を探り当てられるのが怖かった。踏み込んで欲しくなどなかった。アルフォンスだけがすべてな自分を壊してほしくなどなかった。エドワードはロイと視線をあわせないまま後ろに一歩引いた。このままこの場にいることがひどく辛かったからだ。
 だって本当は。
 気付かないふりをしていただけで、わからないつもりをしていただけで。
 恋心なんてとうの昔に自覚していた。

「鋼の」
 ふるふると頭をふるったまま、また一歩後退りしたエドワードにロイは手を伸ばす。それに気付いたエドワードはバシリとロイの手を払い除けた。
「寄るな!さわるなッ!」
 声を張り上げてエドワードは虚勢を張る。毛を逆立てた猫のように強がった目線と態度。けれど、少し躊躇ったあと再び触れようとしてくるロイの指先は何処までも暖かくてやさしくてエドワードは泣きたくなった。
「すまない」
 穏やかな声とともにロイの手がさらりとエドワードの頬に触れる。見上げると、ロイは複雑そうに微笑んでいた。きしりと、エドワードの胸が痛んだ。
「………………オレには、アルだけなんだ」
 ロイの顔を見つめながら。静かに、エドワードの瞳から涙が零れる。
「アルだけ、なんだよ……。だからッ」
 ヒクリと喉が引きつる。
「……あんたなんか、いらないッ」
 聞き取れるか聞き取れないかの境のひどくか細い声でエドワードは告げる。まるで小さな子供が親とはぐれて迷子になったときのようにエドワードの瞳からはとめどなく涙が溢れだしていた。
「アンタなんかいらないんだ……ッ!」
「………………鋼の」
「もう、オレん中に……………入ってくんなぁ…ッ…!」
 表に引き上げられた感情はとどまることを知らずエドワードの胸の内を漂い続ける。たたずむ静寂。ぱらぱらと泣くエドワードの涙を、ロイはゆっくりと拭っていった。エドワードは抵抗しない。唇を噛み締めて、下を向いて静かに目蓋をおろした。拡がるのは黒。何処までも自分を支配するその色に、いっそのこと狂ってしまいたいと、エドワードはそう思った。