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いっそ瞳を潰してしまおうか。
Es war zu feige gewordene Salome
溢れ返るのはただただ闇だった。遠くにおぼろげに見える景色も目の裏側も傍に漂う粒子も、総てが暗憺とした闇だった。何もかもを漆黒に染め上げ、その境界という境界を無くしていく。けれど何も見えないというわけではない。いっそのこと何も見えない方が良かったのかもしれない。蠢くものを全部溶かして識ることもなかった。
青年は上体を起こす。彼が発する微かに響く音は口元を手で押さえているためくぐもっている。隣で寝ている人物を起こしてしまわぬようにだ。決して眠りを妨げてしまわぬために。咳をするたび青年の身体が小さく揺れる。短く揃えられた薄い金髪がそのたびに震えさらさらと暗闇に光を撒いた。
彼女を起こさないように。けれど今の彼女が起きる気配も見せないことは皮肉なことに彼が他の誰よりも知っていた。
青年は呼吸を繰り返す。世界は静寂を取り戻し聞こえるのは彼の荒い呼吸、だけ。時計が時を刻む音も隣家の夫婦が喧嘩をする大声もこの耳には届きやしない。ましてや寝息など 。そこで、はっと青年は我に返る。そして目を見開きベッドの片側を見た。しなやかに盛り上がっているシーツ。一見して未だあどけない少女とも見て取れる娘がそこには横たわっている。金髪を散らし露になっている肩は白く暗闇において淡く輝き、夜目に少し慣れてくれば容易に見出だせてしまう。静かに眠るその姿は、しかし眠っているというにはあまりに動きが、なかった。心臓の脈動にあわせて上下する胸の動きに注意しなければ誤解してしまうかもしれない。もしかしたらここにいるのは人形なのではないか、と。
けれどそれは杞憂にすぎない。事実、彼女は息をし寝静まっているだけだ。青年はそれを確認し、安堵する。安堵した、途端。彼は自らが頭の片隅に浮かべた可能性に嗤いが込み上げてきてしまった。何を馬鹿なことを。彼は考えを振り切るように頭を振るった。
彼の横に横たわる彼女は、彼にその背を向けている。それはまるで彼を拒んでいるかのようだ。猫のように背を丸めけれどこちらには決して懐きなどしない。隔たりが確たる物のように彼女は深く眠っていた。しかし彼は驚きはしない。ただ黙ってその光景を見つめるだけだ。彼女はこちらなど見ない。知っている。識っている。何せ彼女が愛しているのは別の人間なのだから。青年はその全てを包括する深海のような色の瞳をそっと細めた。
気付いたのはいつだっただろう。彼女が自分を見ていないことを。その蜜色の瞳に常に浮かばせているのは誰であるのかを。決して自分のことを語らない彼女だが断片的にはそうではない。些細なことも聞き逃さなければそれは容易に片付いた。聞き留めた言葉を繋ぎあわせればこうだ。彼女が愛しているのは自分では、決して無い。
「エドワードさん」
青年はそっと名を呼んだ彼女の髪に触れた。暗い中にあっても輝きを失わないそれは一緒に夜を迎えるたびに綺麗だと何度も思った。今はかたく閉じられている瞳も、人工に作られた手足も総てが美しいと思った。彼女の総てを知ろうとした。けれど総てなど全てなど知ろうとするべきではなかった。
ことりと彼女は寝返りを打つ。そのことに驚きつつ青年は髪に触れていた手を引っ込め、息を吐いた。彼女が起きるとは思っていない。普段眠りの浅い彼女はしかしこうして一緒に眠っていればうなされることはあっても不意に目が覚めるということはない。人肌を感じて安心するとでもいうのだろうか。安心、するのだろう。彼女が自分と夜を伴にするのは人肌が恋しいからだと、ただそれだけのそして自分に対する愚かな情けだけだと彼女が気付いていなくとも彼は薄々感付いていた。
寝返りを打った彼女はやはり安らかに眠っている。青年は少し躊躇ったあと先程髪を触れたのと同じようにそっと手を伸ばした。
額に触れる。彼の人もこうして彼女に触れたのだろうか。
閉じた目蓋に触れる。蜜色に映し出されるのはどうか金色であってほしい。
うっすらと開いた唇に触れる。けれどこの口で愛を紡がれるのは気に食わないと楽しげに語る彼の人だ。
「エドワード、さん」
首筋に触れる。白く細いその首筋は少し力を入れただけでも簡単に折れてしまいそうだ。さらりと触れた場所には先刻青年が付けた朱い跡。白く繊細な肌に浮かぶ朱ははっきりと己を主張しその対照は哀れなほどに滑稽に見えてしまう。しかしこの朱は時間が経つにつれ色を失い消えていく。彼女の心に彼がいないようにほんの些細なことでさえ、傷一つでさえ彼女の身体に残すことはできない。
「………っ…!」
不意に目の奥が熱くなっていった。虚しさと切なさは時が経つにつれ巧妙に入り交じり彼の心を蝕んでいく。けれど涙は見せない。涙は零れてこない。それで彼女が手に入るのならいくらでもこの雫を流すだろう。
青年は彼女に触れていた掌をゆっくりと引き戻す。軟らかな肌の感触は残酷なまでに掌に残り爪を立てて握り締めても消すことが出来ない。彼の中にただひたすら留まり続けている。
彼女は僕を決して見ない。僕はそれを識ってしまった。憙、嗚呼、それならばいっそ瞳を潰してしまおうか。貴女も、そして僕も。
そうしたら何も見ないで済む。何も識らず、彼女の想いを知らず、総てが闇に還り、彼女の瞳には誰も浮かばない。誰も映し出されはしない。何と、魅惑的なんだろうか。何と、見惑的なんだろうか。そんなことを出来ないことは彼が一等理解していた。
彼女は巣を見つけた。僕を見て。居心地の良い生活。けれど彼女にとってそれは仮の巣だった。僕を、見てください。本来の場所へと帰るために彼女はいずれこの巣をあとにするだろう。その時に、彼女を止める術はあるのだろうか。彼に止める術はあるのだろうか。
彼の声無き願いは彼女に届かない。
その場に溢れ返るのはただただ総てが見渡せる、闇、だった。
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