夜は静寂を守りし暗渠たる空間を作り上げる。微かな、そして細やかなる木々の騒めきだけがその囀りを許される。だが木々の声は今や覆い隠され、人間の声色と機械仕掛けの警戒音が辺り一面に鳴り響いた。ランタンが暗澹とする空間を隈無く動き回り、そして人工的な光を溢れかえさせていた。
 その光に浮き上がった屋敷は白くその姿を曝け出し、けれど無機質なそれは何もかもを隠し通しているように見える。屋敷の人間は怒鳴り、怯え、怒り、周りにいる黒色を称える者達に当たり散らしているようだった。
 その黒の者達、地に足を付けた人間たちはけれど屋敷の者の相手もそこそこに皆一様に大声を出し、命令し、従い、そして右往左往に散ってゆく。それに伴って凡庸なる灯りが地上に鏤められていった。

 捉まえなければならないのだ、今日こそは。
 相手は闇のよう。情報は皆無に等しい。だが逃してはならない存在なのだ。

 腰に括り付けたサーベルに手を掛けながら一定の命令をもって進路を決定させながら強者共が路を駆けてゆく。真黒い光景。地上は喧騒に包まれる。けれど木々たちは沈黙を保ったまま。人々の遥か頭上は一切の物音をも起こさなかった。
 流れたるはひんやりとした冷たい夜風のみ。地上を踏みならす音とは明らかに確たる差異を見出だし、そこはその姿を守っていた。
 闇夜は総てを覆い隠し、そして口を閉ざしている。強者共には沈黙は破られない。
だが、しかし。地面を駆ける者達とは別の方角の、その静止を保つ屋根の上で、かしゃり。小さく一瞬、瓦の鳴る音がした。




 墨で辺り一面総てを塗り潰したような深い深い闇。満月が放つぼんやりとした月明かりだけが目の前の物を縁取りそして僅かに知覚させることの出来る中。完全とは云わないまでも気配を消した何者かが淡々と家々の屋根の上を駆けていった。
 漆黒の着物を羽織りそして漆黒の袴を着付けたその姿は闇夜に交じりその空間に溶け合っている。蠢く影すらその輪郭を悟らせない。
 漆黒は其の者を包み込み、だが動くたびに袖口や裾からは白い肌が見え隠れする。亜麻色の柔らかそうな髪は風を受け後方に靡き、長く伸ばされた襟足がはたはたと揺れた。顔の小ささの割りに大きな瞳は今は風の抵抗を弱めるため細められ、そして唇はきゅっと引き結ばれている。
 屋根を駆け抜ける漆黒の者は、少女であった。
 歳は十六・七であろうか。その顔容にはいとけなさが残り、其の歳以下の年令と偽っても否定しきれないあどけなさを持っていた。
 だが、今の少女は違う。
 キッと榛色の瞳を細め、暗闇が広がる虚空を睨み付けていた。
「ぁんの、鬼教育係めっ……!」
 少女はぼそりと、ここにはいない自身の教育係に恨み言を呟く。そして手に持っている絵画の額をしっかりと掴み直して、駆ける速度を速めていった。
 少女が其の手に持つ絵画は見る者が見れば一見して価値あるものだと容易く見て取れた。だが少女は全くそれには興味がないようだった。
 ただ少女はしっかりと落とさないようにそれを持ち運び、目的の場所まで届けることだけを考えていたのだった。

 元の持ち主に返すこと。そのためにこの絵画を盗みだしたのだ。

 少女は速度を落とす事無く屋根の上を駆けていく。だが決して足音はたてない。慎重に、かつ迅速に、少女は指示された場所へと向かった。
 闇夜の所為で詳しい目測は立てられないが、しかし其の場所へはまだまだ大分距離があることだけはわかる。この辺りの地図は総て頭に叩き込まれているのだ。暗闇の中ででも、まして屋根の上であっても自分が何処にいるかは把握できる。
「あいつ、自分が盗みだす役じゃないからって……!」
 少女は指定された場所を睨み付ける。脳裏にちらつくのは教育係のあからさまにこちらの様子を面白がっているようなにたりとした笑み。少女は屋敷に忍び込む前のやり取りを思い出して、くらりと頭が痛くなった。



 屋敷の前の木々の枝の上。忍び込む寸前まで、今回の計画の最終確認のために、少女と其の指導者である青年はそこにいた。
 警官の中に山本が混じって奴らを誘導するから、おまえはその隙に      青年によって朗々と語られる計画に少女はこくこくと首を縦に振る。
 幼い頃からこの為に訓練を積んできたといえども、まだまだ少女には経験が足りていない。あまり年は離れていないにもかかわらず、幼少時より一応は自身の師としての位置付けにあるこの青年の言葉を、一字一句聞き漏らすまいと少女は集中した。そうでなければ、そうであっても、捕まる可能性は否定しきれないのだ。
 獄寺がすでに屋敷に忍び込んで手筈を整えてるはずだから、おまえは獲物のことだけを考えればいい         青年は少女を見ることもなく淡々と説明していく。少女はそれを黙々と聞いていた。
 たとえ、今回も、そして全ての時が悪党ばかりを狙った計画だからといって、けれど所詮は盗みは盗み。失敗すれば必然的に命を失くすことになる。
 少女は青年の説明を真剣に聞いてゆく。しかし計画の最終段階、獲物を盗みだしたあとの逃走経路を聞いて、少女はその目をまぁるくした。青年はそこでようやく少女を視界に入れて、にんまりと笑った。もう一度口を開く。

 逃走経路は自分で考えろ、こっからアジトまでは結構距離なげぇけど、ま、捕まんねーように精々頑張れよ、と。

 其の青年の言葉に少女は絶句した。経験もあまりなく、それでこそ未だ青年の指導のもとにいる少女にとってはあまりにそれは酷だった。けれど長い付き合いの中で青年が一度口に出したら物事を撤回することは皆無だということも理解しており、また反抗しても無意味なことも十分わかっている。
 青ざめた顔色の少女の顔を覗き込み、青年は面白そうに笑みを浮かべた。

 俺がこれまで指導してきてやってんだ、そんくらい出来るだろ?怪盗ボンゴレ10代目、沢田綱吉?

 そうにたりと笑って、自分の役目は終わったとばかりに青年は早々にボンゴレの隠れ家に帰ってしまった。



 一刻前の出来事を思い出して、少女、ツナはこめかみが痛くなってきた。あのあと暫し呆然としていたが、しかしそうしているうちにも盗みに入る予告時間になり、結局はこうして青年相手に文句も言えず、今は隠れ家への道を模索しながら足を進めている。
「リボーンのやつッ。うちに帰ったら、絶対、絶っ対!今までの分も全部文句言ってやるっ」
 そうしても、そう出来たとしても、ツナの教育を任された青年相手では帰り討ちにあうのも目に見えてる。だがしかし、そう思わなければやっていけなかった。そう思うことが、何百尺と駆け、疲れが出てきた彼女の足を動かせる要因の一つとなっていたのだった。


 ツナは微かに聞こえてくる声と足音で警官がどの辺りにいるのか予測をたて、行くべき路を決定した。細心の注意を払いながら屋根の上を駆けていく。
 隠れ家まではどのような道筋で行くべきか。様々な算段がツナの頭の中に立てられ、そして消えていった。
 駆け抜けるべき空間に意識を集中させる。幸いなことに警官の気配は遠い。
 しかし、だからこそ、なのか。ツナは自らが足場にしている屋根の瓦が、後方で僅かに音を鳴らしたのに気付くのが遅れた。
「見つけたよ」
 突然背後に降り掛かった声。今、身を置く夜の闇のように冷たく鋭利なその声を、ツナは今まで聞いたことがなかった。足が、止まる。そしてこくりと息を呑んだあと、恐る恐るツナは後ろを振り返った。