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ひやりと冷えた風が頬を撫で付ける。真暗な闇は世界を全て塗り潰し視界を遮りそして狭めてくる。けれどその中においても奇妙にも見いだせるものがそこにはあった。
ツナが振り向いた先にいたのは、純然たる黒。
それは見つめるだけでこちらの意識を支配するような、言葉に表すことは出来ない威圧感を持ち得ていた。ぞくりと、ツナは背筋を震わせた。
真暗なこの世界では逆に異質となるような、宵闇のように黒く融けた髪と瞳。其の眼光は鋭く輝き前方で息を飲んでいるツナだけを捉えている。獲物となる動物を標的にした瞬間の肉食獣のように其の者は隙すら見せない。身に纏う衣服は着物でもなくかといって立襟に釦の付いた制服でもなく。其の洋装から察するに、この黒の青年はツナが捕らわれまいとしていた警官とはまた違った人種のようだった。
気付かぬまに現れ、そして今まさに十尺程の距離感を持って対峙している人物。其の彼の人の姿を、ツナは知っていた。見知って、いた。
「雲雀……恭弥………」
唇から言葉が漏れる。それは非道く非道く小さな声だったが、閑散としたこの空間では充分な音量であった。雲雀恭弥と呼ばれた青年にも其の言の葉は耳まで届き、彼はぴくりと僅かに目尻を上げた。
「ふぅん、僕の名前知ってるんだ。光栄だよ」
そうして口の端を上げる。其の仕草は全く雲雀が幾ばかりもそうは思っていない様子を顕著に表していた。冷徹な双眸がツナを見据える。びくり、とツナは肩を揺らした。雲雀の冷酷な視線は、知らず後方に彼が現れたという突然の出来事に喉を震わす彼女を怯ませるにはわけなかった。
だが、怖気付くわけにはいかない。
ツナは最悪な展開を指し示している脳内の考えを消しさって、すぅと息を吸った。過去の訓練の記憶は手繰り寄せる事無く自然として頭の中に浮かび上がっていく。
こうした状況の中では如何にして行動すべきであり如何にして道を切り開いていくべきなのか。
ツナは一度静かに目を閉じそして開く。そうして、絵画を携えていない左手の指先を下唇に寄せてにっこりと、それはそれは綺麗に微笑んでみせた。
「今晩和。こんな夜更けにいったいどんな御用なんですか?探偵サン」
ことりと小首を傾げる。
虚勢を張れ、そうして隙が無いなら作り出せ。何事もないように笑うツナの背中にはつっと冷や汗が流れていた。
含みのある彼女の言い方に、雲雀は眉間をしかめた。「探偵サン?」と彼女は再び問う。その笑顔は散りかける程に成熟した花のようににっこりとうっそりとしたものだった。
笑みを保ったままに、ツナが言ったことに虚偽はない。確かに雲雀は、探偵だ。
怪盗ボンゴレは古来より満月の日に盗みの計画を実行し、そして盗みだす物を所持している屋敷の他に街中の探偵にも予告状を送っていた。それは捕まえられるものなら捕まえてみろというボンゴレ側の余裕の態度を表したものであり、また殊更にそれはそれらの探偵、そして警察の神経を逆撫でしていくものであった。
ツナが10代目として怪盗ボンゴレの座を継いでからもそれは変わることなく、今回の計画においても其の予告状はあちらこちらへと配られていた。
だが、そのような事情ならば怪盗側は探偵一人一人の顔を覚えるものではない。警官の顔ぶれを総ては把握していないのと同じだ。探偵の顔を一々覚える道理もない。しかし、それなのに、ツナは雲雀を見知っていた。
彼の容姿は一際目を引くものだが、それが彼女が彼を見知っている謂われではなかった。そんな些細で、そして馬鹿げた理由などでは況してなかった。
“雲雀”はボンゴレ内でも有名なのだ。其の理由、それは、雲雀家がボンゴレ初代が活動を始めた折より代々ボンゴレを追っているためと、またボンゴレ側が窮地に立たされるときはいつも雲雀家が関わっていたからだ。これを人は、因縁の関係、とでも云うのだろうか。
故にツナは雲雀の姿だけは見知っている。“雲雀”は要注意人物として未だボンゴレを継ぐ前から叩き込まれてきたのだ。
厄介な人物に見つかってしまった、とツナは微笑みながらじりりと僅かに足を後方にずらした。雲雀に意識が集中しつつも逃走路を確保すべく後方にも神経を研ぎ澄ませようとする。
笑みを崩さないツナに、雲雀は苛立ちを隠そうともしない。隠す謂われもない。
「それ、君が言うわけ?」
「駄目、ですか?」
「喧嘩売ってるのなら喜んで買うよ。そろそろこの追い掛けっこにも厭きたからね」
雲雀は半歩前に足を進める。ことりと靴と瓦の擦れるが音が鳴った。
「見逃す気、ありません?」
「誰がそんなことすると思ってるの?」
ツナは雲雀の行動に反応するように更に後退さる。握り締めている絵画の額縁に力を入れる。手のひらは少し汗ばんでいて力を込めなければ簡単に絵画を地上に落としてしまいそうだった。
ツナに圧をかけるようにもう一歩進んだ雲雀は、にんまりと笑う。その表情は、云うならば恍惚を湛えていた。
「ねぇ、怪盗ボンゴレ。今日こそ君を捕まえてあげるよ」
云うやいなや、雲雀はたっと瓦を蹴り上げてツナに向かって駆け出した。
手にはいつの間にか取り出していたこの国元来の物ではない棒のような異国の武器を握り締めていた。
ひゅっとツナの横で風が切られる。ツナは僅かに上体を逸らして雲雀の攻撃を躱すが、間一髪のところであった。
焦るツナなど露知らず、雲雀は追撃に出る。手に持つ武器が月明かりを浴びてキラリと光った。一歩、二歩、三歩と後ろに後退しつつ、攻撃を躱しながらツナは屋根の隅へと追い詰められてゆく。隙を見付けて逃げようとするが攻撃は止まず其の考えは脆くも打ち砕かれていった。
煌煌と、雲雀の瞳が好戦的に輝く。
其の輝きに一瞬気を取られた瞬きに、又候ひゅんとツナの目の前を風が切った。鼻先一寸程の距離を何とか身を翻して避ける。足を半歩後ろに滑らす。その時に、屋根の端の瓦がかたりと揺れて、
「…………えっ……?」
ツナの身体は浮遊感に包まれた。バランスを崩して屋根の上から足が外れてしまったのである。
「………っ……!」
だがそれに気付いたときにはもう遅い。ツナは為す術もなく下へ地面へと落ちていった。バサリ、と大きな音がした。
雲雀は予想外の出来事に一瞬の間瞠目する。する、が、しかしすぐに持ちなおして、足場にしている屋根を持つ家の横に置いてある樽や瓶を利用して、タンッと綺麗に地上へと降り立った。
雲雀はツナを捕まえることだけを考えているのだ。ツナが屋根の上から落ちようと、それこそそれによって生きていようが生きていまいが関係なかった。
辺りを見渡す。目当ての怪盗ボンゴレは屋根で足を滑らせた位置の丁度真下の周辺に俯せになって倒れていた。
目線を隣に移すと不自然に花を落としたひしゃげた躑躅の低木が見受けられた。彼女は一度この上に落ちたのだろう。
彼女の手からは絵画は離れ、何の価値もないように数尺距離をおいたところに転がっていた。それを雲雀は興味無さげに一瞥し、それからゆったりとツナに近づいていった。
意識はないようだが、息は、している。一度躑躅の木の上に落ちたおかげで、どうやらそれが落下の衝撃を抑えてくれたらしく、彼女は命ばかりは助かったようだ。漆黒の着物の裾に躑躅の葉と土が付いている。
気を失っている其の少女の顔は稚く、この人物に散々煮え湯を飲まされてきたと考えると雲雀はちりっと頭が痛んだ。だがそれも総て今夜で終わりだ。
雲雀はツナの手首を掴む。捕まえた。そして引っ張りあげて連れていこうとするときに、「………んっ…」と声を上げて、ツナは目蓋をゆっくりと上げていった。
開かれた瞳はまだ覚醒していないようで、ぼんやりと雲雀を見つめている。其のツナを目覚めさせるように雲雀は口を開いた。
「逃げられなくて残念だったね。君の悪業も今日で終わりだ」
しっかりと握り締めた手首を見せ付ける。だがツナはぼぉっとしたままだった。
それはどう反応していいかわからないというよりは、何のことだか理解できず何も反応を示さないといったほうが正しい。
様子が奇怪すぎる。捕まったことに騒ぐか再び逃げ出そうとするか、はたまたもう逃げ出せないと悟って観念したとしても、もう少し違う反応が返ってくるものだろう。
雲雀は無反応なツナに訝しげな視線を送る。ツナは掴まれた手首と雲雀の顔を交互に見交わして、そして口を開いた。
彼女の虚ろな瞳は天に浮かび上がるまんまるな月を映し出している。
「あなた、だれ、ですか…?」
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