聞き間違え。
 辺り一面に闇が存分に融け息が詰まるほどに静まり返るこの空間においては、普段ならば人の声は疎か少しばかりの物音でも何の障害もなく耳に届くはずなのだが、しかし雲雀は反射的にそう思った。
 そう、思うしかなかった。其れ程に彼はツナが今し方口にした言葉を理解出来なかった。雲雀は軽く目を見開く。
 だが彼の其のような思いを嘲笑うかのように、ツナは雲雀に目を向けたままもう一度同じ問いを繰り返した。
「あ、あの。だれ、です、か……?」
 先程とは違って語尾が震えている。虚ろだった瞳にはもう満月は浮かんでいない。つっと前を見据えた其の榛色に映り込んでいるのは、眉をひそめた雲雀だ。
 彼女は起き上がったときにあったぼんやりとした様子を既に潜め、おろおろと未だ掴まれている自身の手首と目の前にいる青年を見交わしていた。眉も八の字に下がっている。
 完全に、彼女は意識を取り戻したらしい。だが、それにしては、否、それだからこそ、彼女の其の態度はおかしかった。
 はたはたと瞬かれた瞳は無垢を纏って目の前を見つめる。先程うっそりとした笑顔を浮かべていた怪盗の面影は今や全くといっていい程、無かった。同一人物とは到底思え、ない。

 雲雀と彼女が真っ向を切って対面したのは今回が初めてのことだったのだが、しかし今の彼女の様子が常とは違うものだということは雲雀にも本能的に感じ取れた。屋根の上で詰め寄ったときとは違う。今の彼女は、あまりに「普通の」少女じみていた。外見から考えればそれは全うなことなのかもしれないが、だがしかし彼女は他でもない、街中の話題をさらう怪盗だ。何も知らない子供ではない。
 雲雀は見定めるような視線をツナに向けた。彼女はわけもわからず、不安で今にも泣きだしそうな顔をしていた。
 顔の造作、色素の薄い髪、瞳。そして土と躑躅の葉が付いた漆黒の着物や袴から、この少女が怪盗ボンゴレだということは明白だ。状況もそれを指し示している。だが、彼女の其の姿はまるで、怪盗ボンゴレとは別人だった。
 しかし。
 雲雀はある可能性に思考が行き着いて口元を歪めた。ツナがおろおろと何も知らないというように雲雀を見つめている理由、それは考える程に一つしか脳裏に浮かばず考える程に彼女の様子に戸惑いを覚えた自身に苛立ちを覚えるようなものだと判断できた。雲雀は掴んでいたツナの手首により一層の力を込める。
「はっ、悪い冗談はやめなよ。そんな演技をして逃げようったって無駄だよ。悪いけど、僕は騙せない」
 そう言って、手首を引っ張ってツナを立ち上がらせた。袖に付いていた躑躅の葉がはらりと落ちた。
 彼女は掴まったこの状態から逃れるために演技をしているのだ。何も解らないふりをして隙を作らせてその時に逃げ出す、そうするために雲雀を欺こうとしているのだ。そうとしか、考えられなかった。
 けれど、生憎だが騙されてやるつもりも逃がすつもりもない。
「ほら、行くよ」
 雲雀は彼女の腕を引いて歩きだそうとした。手首を掴んだ手のひらには未だ力を込めたまま。ツナなどもう視界に入れず、彼の冷たい双眸は先の路の闇ばかり見据えていた。
「ちょ……っ…い、いたッ……な、何なんですか?何処に行くんですかっ?あ、あのッ…!」
 腕を引っ張られたツナは抵抗する間もなく強制的に足を一歩前にずらす。瞳は困惑を彩っていた。雲雀が歩を進める度にツナの足も前に押し出される。ざりっと砂が削れる音が続く。
 前を行く雲雀の背中を見つめることしか出来ない戸惑いを持った瞳。それは真直ぐに揺らめいて、混乱しているよりあまりに頼りなく脆いものだった。
 闇が顔の隣を横切っていく。冷たい風が進む度に頬にあたる。その闇につられるように雲雀から視線を外して辺りの暗闇を見回して、はた、とツナは其の足を止めた。
「……………今度は、なに?」
 急に立ち止まったツナを訝しげに思って雲雀が振り返る。其の声は苛立ちを表し背筋が凍るものであったが、しかし彼女は気にする素振りも見せなかった。気にしている、余裕が無いと云ったほうが正しいかもしれない。
 ツナは困惑に揺れる瞳を辺りに彷徨わせて、茫然としている。血色は悪く、白い肌はより白くなり体温も著しく下がっているように思えた。
 青ざめた顔でツナは整然と並ぶ家々や其の垣根や塀を見回している。雲雀はだがそんな彼女の様子を気にかけるでもなく、一層の力を込めて手首を引いた。路の真中で立ち止まらせる道理も何も持ち合わせてはいなかった。
「君、立ち止まっていいと思ってるわけ?ほら、さっさと歩い」
「ここ………どこ?」
 ぽつり、と呟かれたツナの言葉に雲雀は耳を疑った。彼女は今何を言ったのか。耳に届いた言葉は簡素で単純なものであったが、しかしそれは音だけが脳裏に反響するだけで意味を追随することは到底不可能だった。
 だが、それを許さないというように、ツナは雲雀の方を振り向いた。手首を握り締めていた手のひらを逆に掴み返す。かたかたとそれは小刻みに震えていた。
「ここ、どこ、ですか…?ここっ、何処なんですかッ?何で、何でオレこんなところにッ…!?」
 榛色の瞳は真直ぐに雲雀を捕らえる。先程とは逆に彼女が握り締めた雲雀の手のひらには、つっと冷や汗が流れた。雲雀は僅かにも信じられないものを見るようにツナを見つめる。
「オレ、帰らなくちゃっ…!帰って、帰っ…!帰んなきゃッ。だって…!」
「ちょっと」
「帰んなくちゃ…!オレ、帰んなくちゃっ、みんな待ってるから…だからッ。帰らなきゃ!帰って、それでッ」
 ツナは其の言葉しか識らないとでも云うようにはただただ帰ると帰らなくちゃと繰り返す。縋るような眼差しを雲雀に向ける。
 明白なまでに、それは取り乱した姿。
 彼女の其の姿は水面に石を投げ込んだが如くじわりじわりと雲雀に当惑の波紋を浮かばせた。ツナは取り乱したまま。
 だが何かに気付いたようにぱたり、とその唇から言葉を消した。
 考え込むようにすぅと視線を地面に向ける。雲雀は彼女の行動を訝しみ、そして怪訝な眸を彼女に向けた。けれどツナは気付かない。
 すっ、と、握っていた彼の手のひらに込めた力が、弛められた。
「帰るって………どこ、に?」
 震えが止まらない。自分が舌に乗せた言葉の筈なのに、ツナは瞠目した。
「おれ……」
 ゆっくりと、下に向けていた顔を上げる。肌はもはや白いを通り越して、青さが増していた。透明度の強い色合いの瞳が雲雀を捕らえて離さない。わなわなと其の唇が震えている。
「だれ?」
 言うや否や、ふ、と意識を途絶えさせてツナは膝から崩れるように倒れてしまった。土埃が僅かに彼女の周りで舞う。
 夜の風が一層の冷たさを持って流れてゆく。満月はいつの間にか雲に隠れ、夜をより黒く黒く染め上げていた。目の前でさえ何があるかは判別しにくい。
 だが雲雀は闇に慣れた瞳で目前の少女を見据えて、愕然としていた。目の前で倒れ込んでいる少女の姿に、戦慄した。
 仰向けの状態で倒れているわけではないので其の表情を窺い知ることは出来ないが、彼女の顔は血の気を失い真っ青だ。
 これも、演技だというのであろうか。
 怪盗ボンゴレであるとシラを切り通すための彼女の演技だというのであろうか。
 雲雀はしゃがみこんで彼女の手首を取る。あっさりと掴むことの出来た其の手首は予想に違わずひんやりとしていた。
 彼女の行動全てが演技だとしたら、何故今彼女は倒れるという真似をするのか。
 簡単に拘束を許すのか。
 立ち上がる気配も見せないのか。
 疑問は波のように雲雀を襲いそれは止まる様子もない。だが、彼の脳裏に先程までの少女の姿が掠める。気を失う前にだれ?と問うてきた彼女の其の表情はあまりに幼くそして澄んでいた。
 嘘を、ついている様子には到底感じられなかった。では、彼女が本当に嘘をついていないとしたら。全てが演技でなかったとしたら             
 彼女が怪盗ボンゴレであることは間違いない。だが其の様子から伺うに、再び目覚めても彼女の其の状態が変わるとは思えない。
 警察に、このまま連行することは出来る。本来ならそうすべきだ。そうするつもりだった。しかし、彼女に自白が求められる状態では無い以上、幾ら雲雀自身の証言があるとはいえ面倒なことになる。下手をしたら雲雀の発言は虚偽のものと見なされかれない。
 厄介な事になった。雲雀はチッと舌打ちする。眦に皺を寄せる。そして冷ややかな双眸で倒れたままの少女を冷静に見据えた。真実は如何なるものなのか。握ったままの手首を引き寄せてそのまま彼女を乱暴に担ぎ上げる。其の所為で洋装に土が付くのを気にも止めず雲雀はこの場を去っていった。
 辺りは闇に占拠されたまま。天に浮かんだ満月も、未だ雲に隠されたままだった。




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