音の外れたプレリュード



 パシャリ、と水の跳ねる音がする。締め切った蛇口からは、その口に残った水がぽたぽたと定期的に零れ落ち、真下にあるバスタブの水面に波紋を作っていた。室内は湿気に満ちて洗面台の鏡は白く曇り、そのガラスは果たして何も映そうとはしていなかった。
「かゆいところはございませんかー」
 その浴室内で、ツナは背もたれもない簡易的な椅子に座りながら、目の前にいる少年の髪をごっしごっしと洗っていた。ブラウスや紺のツイードパンツの裾を巻き上げて、極力服に水がつかないように細心の注意を払いながら洗い上げる。
 少年、リボーンの方はツナとは違い、湯の張られた猫脚のバスタブに肩までとっぷり浸かり、背を側面に預けてだらりと寛いでいた。何やら歌まで口ずさんでいる。そのリボーンの上機嫌な様子にツナは苦笑いを浮かべ若干嫌な予感を感じる。彼の髪を洗う手を休めることは無く、しかし彼女はかっくりと肩を落とした。
 始まりは、彼と何の気なしに始めたポーカーだった。最初の勝負は和やかに進んでいったものの、次第にそれは激化していき、気付いたときにはただのポーカー勝負の賭けの対象はとんでもないものとなっていた。とはいっても、まさか命を賭ける、などの大それたものでは決して無い。賭けの対象となったのは、敗者に1度だけ何かを命令できる、そんな子供じみた権利であった。
 ツナはその最後の勝負となったポーカーにそれなりの自信があった。手持ちのカードはハート柄の9と8と6と5とスペードのキング。そのスペードのキングがハートの7になれば彼女がそうそう負けることはない。
 お願い神様、あの悪魔に妙な権利を与えないで。そう何度も何度も心中で唱えながら、ツナはカードをチェンジした。
 人が嫌がることを嬉々として行うリボーンのことだ。負けてしまえば、例えどんな要求であろうと、それはツナが普段嫌がってやらないだろう要求であって、それを楽しそうに命令されてしまうということは安易に予想が付いてしまう。うっかり勢いで変な賭けにノってしまったツナだが、やはり負けるのは避けたかった。
 願いを込めて引いたカードを見てみる。絵柄は見事にハートの7。自分の運もまだまだ尽きてないらしい。その絵柄を見た瞬間、ツナの心に歓喜と安堵が広がった。ちらっとリボーンを様子見る。リボーンもカードを一枚チェンジし、そのカードを不遜な様子で眺めていた。
 いよいよショーダウンの時だ。見よ、このフォーオブアカインドを!というようにツナ自信ありげにテーブルの上に手持ちのカードを置く。するとリボーンは彼女の視線を捉えたままにたりと笑い、手持ちのカードを彼女に見せ付けるようにザッとテーブルに叩き並べた。

「あぁ、ねぇーぞ」
 先程のツナの痒い所は無いかという質問にリボーンは泡のついた髪をくるくると手で弄びながら答える。頭をバスタブの縁に預けてリラックスモード全開だ。
 つい1時間ほど前。ロイヤルストレートフラッシュを出して見事すぎる勝利を得た彼の命令は「風呂入るから髪を洗ってくれ」とのものだった。
 実は血が流れてないんじゃないのと思いたくなるほどサディスティックで人の嫌がることを好むリボーンの命令にしては、それは彼らしくなかった。余りのらしくなさに、命令の宣告をびくびくと構えていたツナは呆気に取られてしまった。
 そもそも彼女は彼の「髪を洗え」という要求も解せなかった。そんな些細な要求など、この期でなくとも別段頼むことが出来るというのにどうして、と少し不思議に感じもする。思わず、「それだけでいいの?」と聞き返してしまったものだ。それを聞いたリボーンは口の端を上げて「何なら髪以外も洗ってくれていいんだぞ。むしろ洗ってやろーか?」と尋ねてきたが、それは丁重にお断わりさせて頂いた。
 浴室内はシャンプーの泡が立っていく音とリボーンが口ずさんでいる音楽で満たされる。彼が先程から歌っているのは、イタリアに古くから伝わる伝統的な曲の一つだ。曲名はわからないが、ツナも聞いたことがある。聞き覚えのあるフレーズはとうに過ぎ去って、曲は終わりへと近づいていった。
 結局、賭けポーカーで負けた代償は本当に彼の髪を洗うだけで済まされるようであった。最初、要求を告げられ、風呂という単語が出てきた瞬間、「風呂に一緒に入れ」と言われると思って、断固拒否の態度を取ろうとしていたツナだが、その心配は本当に杞憂であったようだ。
 何もする事無く、おとなしく髪を洗われている彼からはこれから無理難題をふっかけるという雰囲気は見えてこないし、またツナは彼の要求を着実にこなしているのだ。文句すら彼は言えないだろう。
 命令内容のリボーンらしくなさに、ツナは少し不気味になるが、しかし無理なことを云われるよりは全然ましであった。寧ろいつもこうであったらと思ってしまう。
 リボーンご愛用のシャンプーはいい香りを漂わせながら、浴室内にその香りを広げていく。ツナは泡だらけの彼の頭をやさしく洗っていった。水分と泡で手に絡み付いた漆黒の髪は細くやわらかく、いつもツナはこの髪を羨ましく思った。この髪に触れるのは、癪なことだが随分と好きだった。
 泡が髪全体に行き届いたのを見とめて、ツナは最後の仕上げとばかりにわっしゃわっしゃと彼の髪を掻き上げる。
「よし、こんなもんかな」
 ふぅ、と泡が付いてない部分の腕でツナは自身の額を拭く。奇しくも、リボーンが口ずさんでいた曲も終わりを迎えていた。
 さていよいよ今度は彼の髪に付いた泡を落とそうとツナはシャワーのコックを捻ろうとする。なるべく目に泡が入らないように流してやろう、と思いつつバスタブの横に付けられたそれに手を掛けようと腕を伸ばす。と、その腕を掴まれた。
 えっ、と疑問に思った途端、身体ごと振り向かれる。にぃ、と笑みを向けられる。ひくり、とツナは口の端を引きつらせた。もう片方の手首も掴まれる。だらだらと彼女の背に冷や汗が流れ落ちた。
 何もしない、と安心しきっていたのは間違いであったのかもしれない。いや、確実に間違っていたのだろう。何せ相手はあのリボーンなのだから。
 最初に感じていた嫌な予感は当たっていた。その証拠にリボーンはにっこにっことこれ以上ないというような笑顔を浮かべていた。彼が次に起こす行動が予想出来てしまい、ツナは青ざめた。
「ちょっ、ちょっと待て!待って、お願い早まるなリボー」
 ン、と最後まで名前を言うことは出来なかった。腕を引っ張られてバランスを崩す。カランと豪快な音を立てながら椅子が床に倒れた。水飛沫のあがる音も響く。
 気が付けば、ツナはびしょぬれになりながらバスタブの中にいた。引っ張られた状態でバスタブに引きずり込まれたため、頭から水面にダイブしてしまい、げほげほと彼女はむせ返る。
「…おま、え………何すんだよっ!?服濡れちゃったじゃんかっつーか髪洗うだけっつー約束だったじゃん!」
 喉を押さえながら、ぎっ、とリボーンを睨め付ける。せっかく濡らさないように気を付けていたブラウスもツイードパンツも最早びしょびしょだ。だがリボーンは謝るどころかバスタブの縁に頬杖をついて楽しげな視線を彼女に向けてきた。
「確かに俺はポーカーに勝って、おまえに髪を洗えって要求したが」
 リボーンは泡の付いた自分の髪をすっと掻き上げながら、言った。
「その間、俺が何をするかは俺の自由だと思わねーか?」
 にっ、と笑う。そして唖然としているツナにそっと近づく。水面がゆらゆらと揺れる。バスタブに2人入った所為で溢れ出した湯が猫脚をつっと滑った。
「おい、ツナ」
「な、な、な、なに……?」
「髪を洗うっつーのは泡を流すことまでのことをいうんだぞ?」
「そりゃ、そうだけど。だ、だからどうしたっていうんだよっ!?」
 ツナはじりじりと近寄ってくるリボーンから少しでも離れるように後退りする。だがバスタブの中は狭い。すぐに背中が側面についてしまった。
「つーことは、おまえはまだこっから出られないっつーことだよな」
 にんまりと極悪な笑顔を浮かべたまま、とんとん、と指先でリボーンは自分の頭を弾く。意味がわからずツナはきょとんとした。が、しかしすぐさまリボーンが意図していることに気づき、はっとシャワーのコックに手を伸ばそうとした。
 だが、時すでに遅し。伸ばした手はリボーンに絡め取られてしまいコックに届くこともなかった。
 リボーンは上機嫌にツナを見つめてくる。また歌でも歌いそうだ。
 謀られた、と理解してももう遅い。最初から髪を洗えと命令してきたのは、一緒に風呂に入るぞというツナが拒否りそうなものではなく、こうした方が彼女に油断ができ、掴まえるのが容易いからであった。自分の考えは甘ずぎた、とツナは小一時間ぐらい前の自分を激しく後悔した。
 今のツナは俎板の上の鯛状態だ。がっくりと彼女は肩を落とす。そうすると濡れた髪から雫が零れてほとりと頬に落ちた。
 項垂れた状態でリボーンを見つめても、彼の髪についた泡が消えることはない。自分の手を見ても、彼がその手を離してくれる様子もない。力づくで逃げようとしても、所詮相手は自身の家庭教師だ。彼に敵う可能性は限りなくゼロに近かった。つまり、自分がさっさと彼の髪についた泡を流してこの浴室から出て行く、ということは限りなく不可能に近いということだ。ツナは更に項垂れた。
「…………リボーン」
「なんだ?」
「………………オレのこの濡れた服の洗濯、絶っっっ対おまえがやれよ?」
 きっ、と睨み付ける。リボーンは一瞬目を丸くしたが、しかし口の端を持ち上げて了承の意を示した。
 パシャリ、と水の跳ねる音がする。締め切った蛇口からは、その口に残った水がぽたぽたと定期的に零れ落ちて真下にあるバスタブの水面に波紋を作る。が、出来上がった波紋は作り上げられる傍からみるみるうちに、その形をつぶさに崩されていった。