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夕餉時。ダイニングからはいい香りが立ち上る。テーブルの周りにはにっこにっこと娘を構いながら箸を進める父親と、その父親に圧倒されて中々箸を口に持っていけない5歳くらいの女の子の姿が見てとれる。母親は足りなくなった食材の補充をと忙しなく動き回り、今は2人に背を向けてトントントンと規則的な音を奏でながら野菜を切っている。
食卓テーブルの上には、皿に乗せられた尽きかけの野菜と肉と、卵の殻。そしてテーブルの中心には卓上コンロが置かれており、その上で鍋がぐつぐつぐつぐつ煮え立っていた。濃い飴色のたれがぐらぐらと揺らぐ中で、肉や白菜、白滝や豆腐等が所狭しと鍋の中に並べられている。
今日はすきやきだ。しかも今日はちょうど給料日だったため、いつもよりちょっぴり高級な肉が食卓に並んでいる。
「どうだぁー、ツナ。うまいか?」
口いっぱいに入れた飴色に染まりかけた大振りな肉を飲み込んだあと、満面の笑みを浮かべて父親は娘の方を振り向いた。
振り向かれた娘は、しかし父親の質問に答える事無く、うんうんと何かを呻いていた。
娘は、ツナは、今まさに器の中にふよふよと漂う卵のカラザと格闘中だったのだ。
あまり食べていないとはいえ、薄まってしまった器の中の溶き卵。このままでもすきやきが食べられないことはないが、しかしやはり味が濃くなりすぎてしまう。それから脱するために、もう1つ卵を入れようとツナはすぐそばにある卵のケースに手を伸ばしたのだった。
ツナは、決して濃い味が嫌いというわけではない。彼女がたまに好んで食べるカップラーメンは濃い味の典型であるだろうし、またよく食べるスナック菓子も十分にそれに当てはまる。普段から、割りかし彼女の舌は塩っからい味に馴れ親しんではいたのだ。
しかし、すきやきの味の濃さにおいては彼女の感覚はスナックのそれとは少し違っていた。例えば、スナックの濃さが舌にくる濃さだとしたら。薄くなった卵を付けて食べるすきやきの肉のそれは、喉の奥にピリッとくる濃さだと、漠然とながら彼女はそう感じていたのだった。正直なところ、すきやきでしょっぱいのは勘弁してほしい。美味しいには美味しいが、薄い味だったらもっと美味しいだろうなー、とどうしても思ってしまうのである。
卵の次足しが出来ないほど、ここには余分な卵がないわけではない。野菜が盛られている大皿の横には、卵10個入りケースがドドンと幅を利かせている。
そこで、卵の次足しをするために、ツナは新たな卵を器に割り入れようとした。赤茶色の殻を持つその卵は、地鶏の卵で栄養満点なのよと母が家族の健康を考えて買ってきた優れものである。テーブルの角に殻をぶつけて、割ろうとして。だがツナが器に卵の中身を滑り込ませた途端に、また新たな問題が出てきてしまった。カラザ、の存在である。
ツナは箸でちょいちょいと器の中をつついては、難しい顔を作っていた。どうしても黄身の両端に付いているカラザが取れないのだ。箸でうまく挟みこんでも、掴めた瞬間白身と一緒につるんと逃げ出してしまう。
今日のすきやきの始めもそうであったが、普段はツナの母である奈々がツナの器からカラザを取ってやり、彼女に器を渡していた。だが、頼りの奈々は今まさに席を立っており、任せることは出来ない状況にある。隣には常に父である家光が座っているのだが、いつも母にカラザを取ってもらうツナにとっては、父にやってもらうという考えはうっかり微塵たりとも浮かんではこなかった。
カラザを掴んでは取り逃がしていくことを、ツナはもうすでに10回は繰り返している。取り除かなくてもまったく問題はないのだが、普段取り除いているためやはり気になってしまうだろう。彼女は躍起になっている。一向に黄身から離れようとしないカラザに、ツナは一所懸命箸を向けていた。
自身の呼び掛けにも答えず、懸命に器を睨み付ける娘の姿に、家光はクエスチョンマークを掲げた。いったいさっきからなに1人で百面相を繰り返してるのだろうか。ツーナ、と名前を呼びながら、ひょいと娘の器に視線を向けてみる。
そして、視線の先にカラザと格闘している娘の姿を見とめて、家光は思わず込み上げてくる笑いを抑えきることが出来なかった。
小さい手で箸を握り締めて、せっせせっせとカラザを取り除こうとしている娘の、その姿のなんと可愛らしいこと。親馬鹿だって罵られてもいい。とても大切なものに愛しさを感じて、何が悪いのだろうか。
娘の一所懸命な様子をずっと眺めていたい気持ちはある。しかし、彼女の箸裁きからカラザが取れるとは到底思えず、それは少し可哀相だ。
「どら、ツナ。貸せ」
家光はツナが驚かないようタイミングを見計らって、彼女の器を持ち上げた。ツナは、へっ、と間抜けな声を出したものの特に反抗する事も無く、母親似のくりくりとした瞳で、父と父にとられた器を見交わした。不思議そうに見つめてくる視線が家光に注がれる。家光はにっと笑い返したあと、自分の箸でさっとカラザを挟み込み、そのまま器用に掬いあげた。取り除いたカラザは卵の殻を入れる容器にそっと流し込む。
「ほらよ」
トンと器がツナの前に置かれた時には、もう卵の両端には何も付いていなかった。
カラザが無いと知覚すると、ツナの頬は僅かに紅潮し、その表情はぱぁっと明るいものとなっていった。
「あ、ありがと、父さん!」
「どーいたしまして、っと」
にこにこと笑顔を向けてくる娘に、家光の心は暖かいもので満たされていった。子供はちょっとしたことでも、喜怒哀楽をはっきりと示してくれる。純粋に喜んでくれている娘の姿に、家光自身も嬉しくなってくる。
「ほらほら、もっと食えよー?」
「あ、ちょっと、とーさん!何するのさーッ」
娘の喜ぶ姿に気を取られて、舞い上がっていた家光は、ついついまだ彼女の器の卵が溶かれていないことを忘れて器に肉や野菜を入れてしまった。まだ溶かれていない卵に肉や野菜が浮かぶ情景は、少し、少しばかり、悲惨なものであった。
ツナは恨みがましく家光を見つめる。家光は娘の視線を受け流し、あちゃー、と額に手を当てた。
「あらあら」
ぶーぶーと文句を父に言う娘の姿と、眉を八の字にしながら謝り続ける夫の姿に、奈々は困ったような声を上げた。頬に手を当てて、仕様がない人たちねと呟いてしまう。それでも、遠慮なくぶつかり合う2人の姿に、ふふっと笑みを零して。
「2人とも、仲が良いわね」
彼女は自分の席に着いて、食材の尽きかけた大皿に切った野菜を盛り付けた。
グローリアス・デイズ
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