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酒は呑んでも呑まれるな。ぽんと頭に浮かんできた言葉に、山本武は昔の人はなかなかに言いえて妙な言葉を作ったもんだと今更ながらに感心した。
そりゃあ人には我を忘れて、ぱーっと騒ぎたくなる時だってある。そうじゃなくても、酒が好きなら手が止まらなくてついつい飲み過ぎてしまうことだって十分にあり得る。
なんたって、山本もその内の1人だ。
中学生の時分よりひっそりこっそりけれど父親に勧められてある種堂々と酒を嗜んできて、今ではいつの間にか彼は1人でボトルをなくしてしまうこともしょっちゅうなくらいであった。どれだけ飲んでも酔わない、というわけにはさすがにいかないが、それでも友人にザルだわくだと指摘されるまでもなく自分は酒豪であるということを自覚していた。
酒の味も結構好みであったし、何より口にした後のあのちょっとした気分の高揚感がたまらない。もっとも、この気持ちの高まりを冷静に分析できるくらいには、呑んでいても山本の頭は正常に働いていた。何せ幾ら朝まで飲み続けて酔っ払ったとしても、彼の理性は崩れ落ちたことがないのだ。悪くて、頭痛てー、と二日酔いになる程度である。もしかしたら彼を落とそうとするには1日中かかるのかもしれない。それほどに彼の肝臓は強靭だった。
彼自身、飲み過ぎて理性がなくなったという経験はない。ましてや記憶がなくなったということもまったくない。
だが、酒に弱くとも呑み続ける人たちの心情を、山本はわからないでもなかった。何といっても楽しいのだ。潰れること自体を目的とした自棄酒は別として、杯を重ねるごとにどんどん高まっていく気分は妙に心地がいいものだった。確かに酒浸りの生活はいただけないと思う。だが人生の添え物としてある分には、実にこれはいいものであると山本は思っていた。
ワイングラスに残った透明な液体をくるりと揺らして、一気に口に流し込む。途端芳醇な葡萄の香りが彼の口の中で弾けとんだ。
本当は日本酒のほうが好きなのだが、故郷から遠く離れたこの国ではいた仕方がない。日本料理専門店に行ってもこの国のワインと比べられるほどのものは見かけられないし、それにわざわざ高い関税をかけて輸入するのも何だかとても馬鹿らしかった。それならこっちのワインを思う存分味わったほうが、よっぽどいいというものだろう。
さすがに本場であるからというのか。値段の関係もあるが、日本で呑んでいた安物のそれとは格段に味が違っていた。葡萄の香りを確かに感じることはもちろん、舌の上に乗せた時の嫌味のなさもこちらでの方が勝っているようだった。
グラスに注いだそれを日本酒のようにちびちびとやるのも一興だろう。だがせっかく楽しく飲んでいるんだ。ここは存分に飲み倒してしまいたい。
山本はそうしてこれまで無尽蔵に杯を進めてきた。すでに2人でボトル2本は空けているが、このくらいでは幸か不幸かまだまだ彼は目を回すことがない。限界は遥か彼方に設定されていて、山本はグラスの一気飲みさえも難なくこなしてみせたのであった。
だが、限界というものは人それぞれである。
彼がいくら強くたって、連れがそうとは限らない。特に彼のような強い者と飲む場合は自分のペースが乱されてしまって、限界が早足で近づいてくることも多々見かけられるものである。
山本は空になったワイングラスをテーブルに置いた。そしてとうに限界を突破してしまっているのだろう、隣に座っているいつもと少し様子の違う恋人の姿に苦笑をもらした。
「ツーナ。おまえ飲み過ぎ」
彼女の手に掴まれたワイングラスをひょいと奪い取って、目の前のテーブルに置く。グラスにはもう何杯目かもわからない白ワインがたっぷりと入っていて、彼女がついさっきまた新しく注ぎ入れたことを如実に示していた。
手までほんのりと赤くなっているのに、しょうがねーな、と思わず山本の口からは苦笑がもれてしまう。
彼女は決して酒に弱いわけではないのだが、彼と一緒にかぱかぱとボトル単位で呑んできたせいだろう。いつもはぱっちりと開いた榛色の瞳は今やもうトロンととろけだし、頬は朱色に上気していた。
「まだ、だいじょーぶ、らって…」
「んなことねーだろ。顔だって真っ赤だし、無理すんなって」
「んー………」
おそらく、ソファーに座っているからこそ彼女は倒れたりはしないのだろう。もし立ち上がっていたのならば、いつ崩れ落ちてもおかしくもないくらいの状態だ。ソファーの背にそのまま身を預けて、ツナはうつらうつらと肩を揺らしている。
「ツーナー、そのまま寝ると風邪引くぞ?」
ベッドで眠るよう促しても、んーと間延びした返事が返ってくるだけだ。ちっともツナは動く素振りを見せなかった。
さてどうしたものか。山本は自分の頬に手を当てた。このまま彼女を強制的にベッドに連れていくのも1つの手だろう。ツナは軽い。たとえ彼女が意識を手放してしまったとしても、抱えて運ぶなんて山本にとっては楽勝なことだった。すぐにでも横抱きして、隣室のベッドに連れていってしまえばいい。妙案が浮かぶ。
それでも山本はなかなかそう出来ないでいた。
せっかく久しぶりにツナと2人きりになれたんだ。少しでも一緒にいたいと思うことは、恋人として当然の心理だろう。お互い一緒の邸内に暮らしているとはいえ、仕事の関係ですれ違いが多い。会えたとしても、それは仲間内で集まることが多く、到底2人きりとは縁遠いものだった。
本音としては、もっとずっといっぱい、彼女と向かい合っていたい。たくさん触れ合っていたかった。今日のような機会は滅多にない。だからこそ、ツナと過ごす時を少しでも延ばしていたかった。
だが、肝心の彼女がままならない状態だ。
山本は再び苦笑をもらす。ツナの身体はかくりと頭を揺らして、そろそろ潮時だと訴えている。もう限界だろう。
「…………っしゃ、行くか」
ずるずるとこの時間を引き伸ばしたくなる気持ちを叱咤する。
山本は彼女をベッドに運ぼうと腕を伸ばした。酒にあおられているせいか、いつも以上に温かかった。
状況がわからないツナは、潤んだ瞳でこてんと首を傾げて仰ぎ見てきた。 うっと山本は息を詰める。そんな気は毛頭なかったのだが、やわらかい肌に触れたままだと、このままどうにかしてしまいそうだ。理性が警鐘を鳴らしている。
「ツナ、ずりぃ……」
きゅっと服を握ってくる仕草は、まるで彼女も期待しているかのように見えてくる。だが、彼女が何も誘っていないのは、考える間もなくわかっていた。ツナはまどろみのただ中にいる。
雑念を振るう。力の抜けている彼女を持ち上げようと、少しだけ山本は腕に力を込めた。
しかし、予想に反して、彼女を簡単に横抱きすることはできなかった。
「ツナ?」
「……………やっ」
重心を下におろして、ツナは抵抗してみせた。
これはいったい何の真似なのだろうか。山本は思わず困惑した。抵抗する理由が見えてこない。もしかしたら、まだ酒を飲んでいたいのだろうか。
「だからもう飲まねー方がいいって…」
「ちが、うっ」
さっきよりずっとはっきり否定されて、山本はますます混乱した。
ツナはむうっと頬を膨らませて、むくれている。いつものことながら、いくつになっても彼女が取ると、この行動でも様になってしまうのが不思議だ。それもこれもツナが童顔であるからだろう。指摘をしたら、ますます拗ねてしまうことを山本はもちろん知っている。
ツナは頬を膨らせたまま、じぃっと山本から視線を逸らさない。
おもむろに、ふくれた頬に手を当ててみた。
お互いの肌は酒のせいで火照っていてあったかい。触れた場所から熱が伝わりあって、境界線なんてあってないようなものだった。じんわりと広がる体温に安心したのだろう。拗ねた表情は変わらない。それでも、ツナは手のひらに軽く頬をすり寄せてきた。
「……せっ…く…」
「ん?」
「せっかく、さ。ふたりっきりなんだ…」
ろれつが回りきっていない舌で懸命に言葉を紡いでいく。うつらうつらとなりながらも、手のひらは山本の服をぎゅっと握って離さない。
握りしめすぎたワイシャツには、くっきりと皺がついていることだろう。それでも山本は気にならなかった。
「どした?」
「……もっ…と………」
「ん?」
「もっと、やまもとと……いっしょ…に…いるっ」
「おわっ」
ぐんっ、と一気に加圧がかかる。山本は変な声を出してしまった。状況を理解する暇を与えてもくれない。ツナが襟元を掴んで、彼女の方に引っ張り寄せようとしたからだ。
気付いた時にはすでに顔が近い。吐息が触れそうなくらいに近かった。
「やまもと…」
甘ったるい大きな瞳が段々と近づいてくる。その目に映っている自分は、なんと困惑した顔をしているのだろう。だが、ドクンと心臓が跳ね上がった。甘い香りが鼻を掠める。ここしばらくは無かった感覚。ずっと待ち望んでいた感触だ。理屈ぬきに熱が全身を駆け巡っていく。
そっとツナが目蓋を伏せた。まろい匂いが鼻腔を余計にくすぐった。
肩を引き寄せる。
だが、期待していた甘い感触は、いくら待てどもついぞなかった。代わりに胸のあたりが妙に重ったるい。
「え、えっと…………ツ、ナ?」
問われた当人は何の反応も返してくれない。答えてくれるはずもなかった。
山本だけを置き去りにした空間に、くうくう吐息が広がっていく。胸にもたれかかってきた彼女の顔を覗き込めば、くーくー気持ちよさそうな顔で眠っていた。
よくよく考えれば、わかっていたことだった。彼女はだいぶ前から微睡みのただ中に居続けたのだ。いつ寝てしまっても不思議じゃない状態だった。だからこそ、自分はベッドに連れていこうと考えたのではないか。
山本は天を仰ぎ見た。
胸の重みは一向に消え去る気配もみせない。もっともすぐに起きだしたとしても、この全身を循環する浮かされた熱を、誰も彼もどうすることもできないだろう。山本にできることは、がっくりと肩を落とすことくらいだ。
「………そりゃ、ねーぜ!」
安心しきった彼女の寝顔を、これほど恨めしく思ったことはない。体に馴染んできた体重には心地よさも感じるが、同時に言いようのない虚しさも伝えてきた。胸の片隅で、むくむくと悪魔が頭をもたげてくる。煽ってきたのはツナの方だ。このまま口付けて眠りから覚まして熱で解け合ってしまえばいい。
ため息を吐きたくなってくる。
実際、山本は深く息を吐いた。
いまさら眠ってしまった彼女を果たしてどうこうする気には、どうしてもなれなかった。
今度こそ横抱きにしてベッドに連れていく。くったりと力が抜けているにも関わらず、予想通りツナは軽かった。
幸せそうな顔で眠る彼女は、山本のかなしさをちっとも共有してはくれないだろう。珍しく彼女が誘ってきたことに喜ぶべきか。自分と同じ気持ちでいてくれたことを歓喜するべきか。そうではない。だからこそ、落胆の根は山本の隅々にまで広がったのだ。
明日ツナは自分のしたことを覚えているだろうか。それとも酒のせいで綺麗さっぱり忘れ去っているだろうか。どちらにせよ、揶揄するには十分な状況だろう。からかって、真っ赤になってうろたえるツナが目に浮かぶ。それくらいしてもバチは当たらないはずである。
山本の唇は、まだ綺麗な弧は描けない。それでも、明日のことを考えれば多少は気持ちが浮上してくる。
宵はまだ濃く、暗い。だが眠ってしまえば瞬く間だ。
「………おやすみ、な」
山本は逡巡したあと、ツナの額に唇を落とした。
早く明日になりゃいーのに。ちっとも起きやしないツナの顔を見つめながら、そう思わずにはいられなかった。
意地が悪いなんてもんじゃない
(とにかくお題/squeezed orange)
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